アヴェスターにはこう書いている?
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松井克浩 『ヴェーバー社会理論のダイナミクス 「諒解」概念による『経済と社会』の再検討」』

 後に本論でみていくように、ヴェーバーは、行為者が合理的な制定秩序を手がかりとして目的合理的に行為するというよりも、むしろ合理的な秩序がある「かのように」行為することの繰り返しによって、結果としてゲゼルシャフト的な秩序が存立し、同時に行為者はみずからを目的合理的な存在として表象できるとみている。諒解という一定の拘束力をもつ秩序が、相互行為の繰り返しの中から形成されるのである。
 こうした諒解にもとづく秩序の特徴は、目的や意義が曖昧なまま相互行為が接続している中で、<結果的に>秩序が立ち上がるという点にある。(p.21)


この点は本書で繰り返し述べられることだが、興味を惹かれる点が2つある。

一つは、この引用文だけでは十分明示されていないが、本論を読めばわかるように、諒解に基づいて行為する行為者と原子論的に理解された方法論的個人主義が想定する行使者とは性質が異なるという点である。この点は本書から得た収穫の一つである。

「諒解」の概念が後の改訂の際に消失するのも、もしかするとこの点が一つの要因である可能性もあるのではないか。

もう一つは、行為が接続していく中で秩序が立ち上がるというところは、ルーマンのシステム論を想起させるという点である。この点は恐らく著者の独自のウェーバー解釈ということになると思うが、この点に関する私の考えは、以下のとおり。ウェーバーは著者が考えるのと同様の考え方をしていたわけではないのではないか。行為の連鎖を考える(いわば行為の進行方向に注意を向ける)というよりも、秩序を個人の行為によって解釈する方法に関心があったように見える(いわば行為が終わった後にその航跡を振り返るような後ろ向きの方向に注意を向けている)

ただ、ウェーバーが書いたテクスト(『経済と社会』の旧稿など)に著者が読みこんだような構造があることも事実ではあるが、ウェーバー自身にとっては「意図せざる結果」としてこうした秩序形成の過程を読み取ることができる文章となっているにすぎないのではないか。その点で著者は著者自身の意見をウェーバーの意見であるかのように語っているとも言えるのではなかろうか。ただ、この点は批判するとしても本書の指摘は興味深いものであると思う。実際、私も折原の研究を読んで「諒解」の概念に関心を持つようになったのだが、その結果、社会の秩序の形成に対する諒解の役割について、著者と同じような考えを持っていたからである。



これまで彼の方法論は、目的合理的行為を範型として構成される方法論的個人主義にもとづくものとして理解されてきた。しかしここまでみてきたように、むしろヴェーバーは目的合理的行為を可能にする特殊な条件の探求を試みていたのではないか。(p.112)


「目的合理的行為を範型として構成される方法論的個人主義にもとづく」点への疑問を呈している点は上述の通り参考になる。

ただ、後段のように、「ウェーバーは目的合理的行為を可能にする特殊な条件の探求を試みていた」という考え方には違和感がある。あくまでも書かれたテクストの構造をよく見れば「目的合理的行為を可能にする特殊な条件」が読み取れるというだけであって、ウェーバー自身がそれを探求しようとしていたとは考えにくい。



 こうした反形式主義的な諸傾向を指摘しつつも、ヴェーバーは「法の不可避的な運命」を、次のようにみている。「〔一方では〕素人裁判官制度のいろいろの試みにもかかわらず、法の技術的内容がますます増加してゆき、したがって素人の側における法の無知――すなわち法の専門性――が不可避的にますます増大してゆくこと、〔他方では〕そのときどきの現行法を、合理的な、したがっていつでも目的合理的に変更できる、内容の神聖さをいっさいもたない、技術的な装置であるとみる評価が、ますます強化されてゆくということが、それである」(WuG, 512-3=534-5)。
 この記述は、明らかに「理解社会学のカテゴリー」の末尾に記された文章と対応している(WL, 473=125)。「カテゴリー」では、一方で、合理化の進展によって人びとが技術や知識の合理的基礎から引き離される、という指摘がみられる。とりわけ「大衆」にとって合理的秩序の妥当は、「諒解」の上に成立する。他方で、「文明人」は、日常生活の諸条件が合理的なものであるという「信仰」をもち、それゆえそうした諸条件をもとに合理的に行為しうるのだという「確信」をもつ。すなわち、ヴェーバーは「秩序の合理化」が実際に立脚しているのは、いわば<合理性諒解>であるとみていた。(p.199)


この「法社会学」の結論部と「カテゴリー」の結論部の議論の対応についての指摘は、「カテゴリー」が『経済と社会』の旧稿(第二部)の頭部であるという議論を補強するものである。



 ヨハネス・ヴィンケルマン編集の『経済と社会』第四版および第五版では、第二部第九章の八節が「国家社会学」と題されている。しかしこの部分は、ヴェーバーが『経済と社会』旧稿の一部として執筆したものではない。この節は、ヴィンケルマンが「新秩序ドイツの議会と政府」や「職業としての政治」等の諸論文から(それぞれの背景や文脈を抜きに)国家に関わる文章を抽出して編集したものである。(p.248-249)


かつて私は『国家社会学』の邦訳が絶版となって入手困難なのを不思議に思っていた時期があるが、折原らの本を読んでいて事情がだんだん分かってきたところだった。本書のこの注は「国家社会学」章の成立に関する経緯を簡潔に書いてくれている。

一応、『国家社会学』は入手してあるので、この点を念頭におきながらウェーバーのテクストがどのように利用されているのか読んでみようと思う。



 ヴェーバーは、『経済と社会』旧稿の出発点において、研究者や観察者からみて客観的に成り立つふるまい方の予想(客観的に妥当する意味)と、行為者自身が抱く予想(主観的に思われた意味)を区別する必要性を強調していた。……(中略)……。
 諒解とは、別の言い方をすれば、この二つの水準の「意味」が<結果的に>あまり齟齬をきたさずに相互循環している状態を指し示している。(p.253)


二つの水準の意味の区別は、私自身もウェーバーを読み始めた頃にかなり強い印象を受けた考え方であるが、恐らくウェーバーを読んだ人ならばほとんどの人がその驚きを経験したことがあるのではないか。その意味で、ウェーバー(特に方法論に関する論文)をある程度読んだ人ならば誰でも知っている区別であると言えるが、「諒解」の概念にとってこの区別が鍵をなしているという認識は、本書を読んではっきりと把握できた点であった。

「客観的に妥当している意味」を行為者が漠然とであれ感得し(影響を受けたりし)ながら「主観的に思われた意味」にもとづいて行為を行い、その結果、立ち上がる秩序が「客観的に妥当する意味」を確固としたものへと強めていくといったようにして、行為の接続による循環関係が成り立っている状態。二つの水準の意味が区別されていないと、この循環を明晰に把握することができないため、この区別が鍵となるわけだ。


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