アヴェスターにはこう書いている?
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田端宏 編 『街道の日本史2 蝦夷地から北海道へ』(その2)

 開拓使長官をめぐる人事には、政府内部の北方政策に関する対立が反映していた。沢宣嘉を開拓使長官にしようとしたのは、丸山作楽という人物であった。丸山は、後に外務大丞として樺太に派遣される人物である。この丸山を支援していたのは副島種臣であり岩倉具視であった。一方、東久世を開拓使長官にしようとしたのは、大隈重信(大倉大輔)・伊藤博文(大蔵少輔)であった。そして、両者がこの人事を相談したのは木戸孝允であった。沢宣嘉を開拓使長官に押すグループは、ロシアに対して極めて強硬な態度で臨むことを要求していた。一方、東久世をそれに押すグループは、ロシアに対して宥和的な対応を求めていた。樺太をめぐる日本とロシアの紛争が発生していた明治初期にあってロシアに強硬な態度で臨む沢宣嘉が開拓使長官になることは、北方問題からロシアと極めて深刻な対立を醸成することになるのであった。
 この開拓使長官に東久世が就任したことでこの対立を回避することができたのであった。さらに、開拓次官に就任した黒田清隆もロシアとの対立を避ける方策を求める人物であった。黒田は、樺太の開発には消極的で、北海道から開拓を進める必要性を再三にわたって述べている。開拓使長官と次官はロシアとの対立を避け、北海道の開発に勢力を注ぐという点で一致していたのである。その具体的開発は、いわゆる「開拓使十年計画」として実現する。(p.84-86)


ロシアといたずらに対立するよりもまずは足元を固めるという方針が採られたといえようか。

ある意味では、結果として日露戦争では辛勝できたという面もある、とも言えるかもしれない。もしロシアとの戦争が明治初期だったら、まず勝算はなかっただろうから。

いずれにしても、明治期の政治状況には興味を惹かれるものがある。




 このように、北海道の分割分領政策は、維新に功労のあった諸藩への「賞典」という面と朝敵となって削封された諸藩の移住先という二つの側面を持っていたのである。(p.93)


明治維新の勝者と敗者がともに北海道の開拓に当ったわけだが、その後の彼らの展開がどうなったのか、少し気になる。「賞典」として北海道開拓をした地域が没落し、削封された藩からの移住者の地域が栄えるなどという逆転があったかどうか、など。



 明治十年代に、北海道に三つの集治監が置かれた。これらの集治監はそれぞれ、役割があてがわれていた。樺戸集治監は、開墾と土木労働を任っていた。空知集治監は幌内炭鉱の労働力として期待されていた。実際、空知集治監から幌内炭鉱へは、一日に500人の工夫と200人の人夫が送り込まれている(1890年)。釧路集治監は、跡佐登(あとさぬぷり)硫黄山の採掘を求められた。このように、集治監の設置場所は、北海道の開発と大きく関係していた。このような労働に加えて、さらなる重労働が囚人たちに求められることになる。(p.98)


なるほど。北海道以外の囚人の状況とも比較してみたい。



 最後に付言しておきたいのは、拓殖鉄道として出発した士幌線が、当時の国際環境、すなわち、観光ブームの世界的な展開の中で、国立公園内を通る観光鉄道として規定されたということである。(p.145)


ここで言う観光ブームの世界的な展開とは、第一次大戦後から1930年代頃までの外国人を対象とした観光ブームが起こったことを指す。

士幌線の区間にある大小の渓谷に路線を通すため、多くの橋梁が架設され、コンクリート・アーチ橋が建築史上初めて採用されたことが本書でも説明されていた。そして、この橋が産業遺産として現代に至っても地域の資源となっていることが指摘されている。

若干興味が出たので機会があれば見てみたい。



 米軍の本道空襲の主目標は、鉄鋼の街室蘭と港湾都市函館にあったらしく、その攻撃は徹底して行われた。中でも函館空襲は津軽海峡交通の遮断が目的とされ、14・15日ともに青函連絡船を中心とした攻撃が繰り返された。(p.145)


太平洋戦争末期の1945年7月14~15日の北海道空襲に関する説明。こういうところからも、交通の要衝や軍需と繋がりの深い都市というのは、攻撃の対象になりやすいことが見えてくる。(例えば、原爆が投下された広島も当時、軍需工場があった。)



 また、近代の函館の歴史をみたときに、大きな苦難となっているのがたび重なる大火である。1879(明治12)年の大火では多くの大寺院が類焼して移転を余儀なくされ、東本願寺は現在地に再建された。しかし亀井が生まれた年である1907年の大火で、前述の四つのキリスト教諸派の教会とともに、東本願寺もふたたび焼失した。再建にあたり東本願寺は当時例のない鉄筋コンクリート造りの本堂を建築し、1915(大正4)年に完成をみた。今も健在なこの建築には、新たな文化の受容と大火に翻弄された歴史という近代函館の一側面が象徴されているのである。(p.170)


明治期に関して言えば、大火というのは都市の形成にあたってかなり重要な意味をもっていたらしい。東本願寺の建築は黒い屋根の巨大な建築で、現在も元町周辺を散策する観光客の目を引く建築の一つであるが、ここも防火という観点から鉄筋コンクリート造を採用したようである。

また、鉄筋コンクリート造の建築として見た場合でも、大正4年に完成したというのは、かなり早い方であると思われ、北海道の地でこれが建てられていることにもやや興味がある。(北海道と台湾の比較という観点からも、当時(大正時代頃)日本の植民地となっていた台湾では鉄筋コンクリートが使われ始めるのが本土より早かったが、北海道という内国植民地でも同じように早期に(実験的に?)鉄筋コンクリートが使われることが多かったのだろうか?

なお、引用文中の「四つのキリスト教諸派の教会」とはカトリック元町教会、ハリストス正教会、聖公会、メソジスト教会であり、いずれも現在の元町周辺に教会堂がある。



 草創期の函館貿易における主要な輸出品は、昆布をはじめとする海産物であり、その多くは中国へ輸出されていた。函館での居留中国人商人による貿易は慶応期(1865~68)以降、非条約締結国民であったため欧米商人の雇用者の立場をかりて本格化する。以後明治期を通じ函館では、上海を中心とする対中国向けの昆布輸出が、居留中国商人の主導で行われた。彼ら海産物商は、1880年ころには同徳堂という組織を結成し、この同徳堂がおかれた場所に1910(明治43)年、函館中華会館が新築され現在にいたっている。ここに祀られている関帝廟は、明治30年代に上海より分霊を受けたものといい、居留中国人たちによる信仰が維持されてきた。同様の組織・施設が横浜・長崎にも見られるように、「道教の廟堂」は函館の開港地としての特質と、海産物を中心とした近代初期の函館貿易がもたらした文化であった。さらに北海道における産業や経済の発達史をみたとき、中国社会とのかかわりもまた見逃すことのできない要素のひとつとなっていたことを示しているのである。(p.170-171)


江戸後期から明治前半あたりに関しては、北海道に関する産業と流通を考える場合、海産物がかなり重要な意味をもっているようなのだが、ここでも昆布がカギとなっている。

この引用文には様々な興味深い論点が散りばめられているが、中国との貿易が重要な意味をもっていたということのほか、中国の商人たちは欧米商人の雇用者として関わっていたという部分も、神戸でも同じようなパターンで中国の商人が来ていた時期があったことを想起した(同時に、神戸華僑歴史博物館はなかなか充実した展示だったことを思い出す)。このように見ると、横浜、神戸、長崎には中華街があるのに、函館に中華街がないのが不思議に思えてくる。函館の場合、中国との関係の深さ(来ていた中国商人の数など)がそれほどでもなかったということが反映しているのだろうか?

函館中華会館も歴史的建造物として貴重なものであり、見てきたいという思いはあるのだが、内部を公開している時に見ることができていない。何とか次に行く時には見てきたいと思う。ちなみに、この建物も1907年の大火で焼失した会館をレンガ造で建て直したものであり、一つ前の引用文の論点とも関わる建築であることがわかる。



 明治なかばから大正期にかけての北海道への移民数の動向をみると、明治二十年代後半、明治四十年前後、そして大正なかば以降が三つのピークであり、総数でいえば東北地方からの移民がもっとも多かった。しかしやや詳細にみると、第一のピークの時期に多くの移民を送り出したのは北陸地方であり、第二のピーク以降東北からの移民の割合が急増する。これは明治初期から小作地率が高かった北陸地方に対し、東北地方では明治中期以降小作地率が急増したことが反映したと考えられる。ただ第二のピークの時期に北海道への移民が多かった地域を府県別にみると、第一位は富山県であった。(p.186)


北陸や東北の小作地率と北海道への移民の数とに関連があるというのは興味深い。

明治40年前後と大正半ば以降の時期に移民のピークがあったことには、日露戦争の後であることや第一次大戦後であることが関係しているように思われる。詳細は今は書くだけの余力がないため後日にしたい。



旧土人児童教育規定などには、アイヌ児童への教授のあり方として、「国語」の習熟の徹底、「簡易」な算術、「清潔」「秩序」や「忠君」「愛国」観念の修養をはかる修身などの方針が示されている。そこには特異な習慣をもち、数的観念・計画性・衛生観念などに劣るといった当時の「日本人」によって固定観念化されたアイヌ像が反映し、「別学」によって「日本人」として教育することで、アイヌを「保護」するという発想がうかがえる。それはまた文化の伝承・継承という視点を欠如させた、あるいは否定した教育内容であった。「日本」と「日本人」を意識せざるをえない社会的な仕組みが、知里をはじめアイヌの子供たちに対して設定されていたのである。(p.202)


戦前のアイヌに対する教育と植民地台湾における教育については比較して考察してみたいが、今はまだ語るだけの内容を身につけていないため、後日、試みたいと思う。



 書き残される歴史、それによって固定化されてゆく歴史像に対し、敗者、弱者の歴史は、語られる歴史、残されてゆく場を持たずに来て去ってゆく類の歴史である。誰かが拾い上げなければ浮かび上がることなく、何もなかったも同然になってしまう歴史でもある。
 幼いころから祖父の思い出語りを聞いて育った子母沢が光をあてたのは、そうした歴史であった。勝者の歴史の陰に、歴史のなかで表舞台に立たなかった人びとの側から見た歴史が同時に存在していることを、子母沢の作品はあらためて教えてくれる。(p.217)


明治25年生まれの作家・子母沢寛に関する叙述より。北海道のような「辺境」であればこそ、こうした視点から歴史を見ることができたという面もあったのかもしれない。

現在でも、東京から見た日本と、北海道や沖縄のような周辺的な地域から見た日本とでは、大きな隔たりがあるということを特に東京や大阪、名古屋のような大都市に住んでいる人には理解しておいて欲しいと思う。


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