アヴェスターにはこう書いている?
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A.O.ハーシュマン 『離脱・発言・忠誠――企業・組織・国家における衰退への反応――』(その1)

競争に備わる活力増進機能を礼賛する人たちは、競争システムが人々をいつも最高の状態で働かせると信じ込んでおり、それに失敗することがあるなど認めたがらない。それでもある企業において、そうした失敗が生じたとすれば、その企業は死を招く病に冒されており市場という舞台から降りるしかない。その一方で、意気軒昂な新参者がそれにとって代わろうと手すぐね引いて待ちかまえているはずだ。事実上このように想定しているのである。ガルブレイスはこれをあざ笑い、「アメリカ経済を、年老いて落ちぶれたものが若くて元気のいいものに常にとって代わられている生物学的プロセスと見なす考え方」と述べた。こうした考え方だと、一時的で治すことが可能な過失、つまり本書でその重要性を強調している過失からの回復を、競争はどのように手助けするのかということを議論する余地は残されていない。(p.24)


市場原理主義とか市場万能主義などと言われたりする、新自由主義ないしリバタリアニズム的な経済観に対する批判。本書の枠組で言えば、こうした考え方はあまりにも離脱(exit)に偏った対応しか描いていない点で不十分である。本書ではこれに対して、発言(voice)を対置し、離脱と発言の組合せによって、企業や組織の衰退またはその回復を考えていく。その意味で、現代でも本書の主張は意義を失っていない。



すなわち、競争とは、競合する企業同士がそれぞれの顧客を互いに誘いだす結果をもたらすだけかもしれないこと、そして、誘いだすだけの結果に終わっているとすれば、競争、製品の多様化とは、それだけ無駄が多く、注意をはぐらかせるものだということである。特にこのことがあてはまるのは、競争状態になければ、消費者が経営陣により効果的な圧力をかけ、製品の改善を促すことができるような場合、あるいは「理想的な」製品の追求という無駄なことにエネルギーを費やさないですむ場合であろう。こう述べればすぐにわかるだろうが、競争的な政治体制もしばしば、まさにこうした形で描かれてきた。安定的な政党体制を有する社会に対するラジカルな批判者は、支配的な政党同士の競争が「実際には選択になっていない」と非難することが多かった。競争的な政党体制がない場合のほうが、市民が社会や政治の根本的変革(とりあえず、こうした変革は望ましいものとしておく)をうまく成し遂げられるのかどうか。このことは、もちろんいまだ決着のついていない問題である。だがそれでもやはり、競争的な政治体制には、さもなければ革命を助長しかねない状況を、支配政党に対する温和な不満の表明に巧妙に変えてしまう能力がかなりあると、ラジカルな批判者が指摘している点は正しい。(p.29)


日本ではこの20年間、「二大政党制」を目指す動きが続いてきた。最近はそれでも民意が反映されないと感じる人が多いのか「第三極」に期待する機運もある。しかし、現状では、第三極として現れている政党(特に「みんなの党」と「日本維新の会」)は政策の内容的には自民党の内部にあった派閥が独立しただけのようなものでしかない。みんなの党はリバタリアン的な考え方に立ち、経済的保守主義(いわゆる新自由主義)を推進しようとする経済右派であり、小泉構造改革と路線的にはかなり近い。日本維新の会は排外的ナショナリズム的な考え方に立ち、国家主義的な考え方(歴史修正主義など)の浸透と経済的には、経済的な強者の権益を保護する方向の自由化を支持する傾向が強い。第三極と言ってもこれでは単なる自民党の代替物でしかなく、まさに「実際には選択になっていない」。そして、人びとが代表されているという感覚を持ち得るような政党がないという状況の下で、どの政党(どの政治家)がリーダーとして――但し、自分の望むとおり(都合がよいよう)に!――導いてくれるのかを探し回るということが続いている(引用文で言うところの「無駄が多」い!)。このような似非代替案があることによって、(それによって注意がはぐらかされてしまい!)われわれは何を望んでいるのか、より重要な問題としては、何をすることがわれわれにとって望ましいのか、という問題については、まともな議論をすることが妨げられている

国会には、誰が善い政策を実行してくれるのかを探すのではなく、何が善い政策であるかを追求する場として機能してほしいものである。



 ここで、一方における経済学-離脱と他方における政治学-発言との間に興味深い類似点がみいだされるように思われる。経済学では、長い間、需要が弾力的であればあるほど(つまり、衰退が生じたときに離脱が即応すればするほど)、経済システムの機能は高まると考えられてきた。ちょうどこれと同じように、政治理論においては、民主主義が正しく機能するには、極力注意を怠らず、活発に動き、自らの要求を口にする人々が必要であるというのが、長い間、信条とされてきた。アメリカ合衆国では、このような信念は、投票行動・政治的行動に関する実証的研究によって揺るがされた。そうした研究によれば、一般市民の間には長期間にわたり、かなりの政治的無関心がはびこってきたことが明らかになったからである。民主的体制は、こうした無関心にもかかわらず、なお首尾よく生きのびるものらしいといことになり、市民による活発な政治行動と民主主義の安定性との関係は、かつて考えられていた以上にかなり複雑なものであることが明らかとなった。離脱の場合と同じように、機敏な市民と緩慢な市民が混ざりあっている状態、さらにいえば、状況への関与とそこからの撤退を交互に繰り返すことでさえ、実際には、全面的・永続的な行動主義や全面的な無関心よりも、よほど民主主義の働きを助けるものなのかもしれない。この点に関しロバート・ダールが強調した一つの理由は、以下のようなものである。すなわち、ほとんどの人々は、日ごろ自らのもつ政治的能力を十分には活用できていないのだが、だからこそ、自分の重大な権益が直接脅かされるときにはいつでも、通常は使われず蓄えられていた政治的な力、影響力を行使し、予想もされないような勢いでもって、そうした状況に反応できるということである。別の説明の仕方によれば、民主的な政治体制には、「一見矛盾しているようなものが混ざりあっていること」が必要とされる。つまり、一方で市民は、自らの考えを表明し、自ら欲するものを政治的エリートに知らせて、彼らがそれに応答できるにようにしなければならないが、他方、これらエリートには意思決定の権限が与えられていなければならない。こうして市民は、あるときは影響を与える存在でなければならないし、またあるときは他人の決定に従わなければならない存在でもある。(p.36-37)


民主主義は全市民の参加が理想であるとされるような種類の信条を民主主義に関する政治理論ではしばしば目にするが、特に政治学などを学びはじめた頃、強い違和感を懐いたことを思い出した。

しかし、21世紀初頭の日本の政治意識について思いを致すと、これとは逆のことが気になっている。すなわち、人びと(ないしはマスメディア)の政治への反応が過敏すぎるため民主主義が適切に機能できなくなっていると思われる。

さらに言えば、日本では政治的な判断を下すための基本的な社会科学的な訓練が学校教育でほとんどなされていないことも手伝って、ますます適正な政治的判断が阻害されていることも気になっている。

この状況を改善するためには、長期的には社会科学的な素養を高めるような教育改革が必要であり、マスメディアの報道をセンセーショナリズムから遠ざける方向で公共性を保つための制度を導入する必要があるように思われる。



 以上述べてきたように、離脱には、できるか否かのはっきりとした意思決定以外に何も必要ではないが、発言は、その本質上、常に新たな方向に進化していく一つの技芸(アート)である。こうしたことから、目の前に両方のオプションがある場合、離脱に有利に作用する大きなバイアスがかかってしまう。より安い費用、より大きな効果をみつけだすことができるかもしれないというのが、まさに発言の本質であるとしても、顧客・メンバーは、発言の費用・効果についての過去の経験に基づき意思決定をするのが普通だろう。したがって、離脱というもう一つの選択肢が存在していることが、発言という技芸の発達を委縮させる傾向を持つ可能性がある。(p.46)


既に引用した文章でも指摘されている論点だが、「離脱」という選択肢があることによって「発言」の機会が減るだけでなく、その質も向上しない傾向が生じ得るというのはかなり強調されてよい論点だと思う。



公企業の経営陣は、国家財政当局が見捨てるはずがないといつも信じきっているため、顧客が競争相手のほうに移ることによって生ずる収入の減少にはさほど敏感に反応しないが、反面、その提供するサービスが消費者にとって決定的に重要であり、かつ他に代替物がないために、それが悪化するとなると「大騒ぎする」目覚めた大衆の抗議には、敏感な反応を示すであろう。(p.51)


公企業や行政に対しては、「離脱」という選択肢がない(少ない)ために、寧ろ「発言」によるフィードバックメカニズムが働きやすい面がある。この点は「離脱(選択)」ばかりが強調され「発言」が省みられない世論の中で見落とされている点の一つである。



アメリカ合衆国のどこかの公立学校と私立学校を、ナイジェリアにおける鉄道とトラックの話に置き換えてみれば、かなり似かよった結果がでてくる。理由はいろいろあるだろうが、公立学校が何らかの意味で衰退すると想定しよう。そうすると、教育の質を重視する親たちの間で、わが子を私立学校にやろうとする人の数はますます多くなるだろう。こうした「離脱」が公立学校の改善に向け、何らかの刺激を生むことがあるかもしれない。だがここでも、改善への刺激はあったにしても、微々たるものにすぎない。もし私立学校という代替的選択肢がなかったなら、もっとも意欲的かつ断固たる覚悟で衰退に立ち向かうはずのメンバー・顧客を、公立学校は、それ以上に失ってしまうからである。(p.52)


教育のバウチャー制などによって学校を「選択」できるようにしよう、という議論への批判。

離脱を強調するだけでは、発言の機会も減り、その質も上がらない、というのがその反論の要点であろう。


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