アヴェスターにはこう書いている?
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関秀志、桑原真人、大庭幸生、高橋昭夫 『新版 北海道の歴史 下 近代・現代編』(その3)

この頃、全国的な農業・農村救済対策として内務省による時局匡救政策がとられ、北海道にたいしても拓殖費財源として北海道農漁山村振興費が32~34年に1600万円支出されている。しかしこれも満州事変(1931年)いらいの国防予算増大の影響をうけて35年からは中止され、他方で日本の満州進出、台湾・朝鮮等経営の進展などがあって、北海道の拓殖事業の地位は低下しつつあったのである。(p.217)


北海道拓殖の地位低下と海外植民地への進出との関係は興味深い。もっと掘り下げて調べたい。



 大戦後の北海道産業の変遷を次表「産業別生産価額・同比率」によって見れば、全体としては一定水準を維持しているものの、分野・年代によっては極端な打撃の跡も見える。1919(大正8)年度は、来住人口、耕地面積、鉄道マイル数、移輸出入額などを含め、ほとんどの経済指標がピークに達した年であり、それだけにその後の激落ぶりが目立った。全体としてこれは戦争経済の揺り戻し現象ともいえよう。(p.220)


日清戦争のころから急激に移住者が増えたことは既に引用したが、日清・日露戦争の時期から第一次大戦までが北海道の経済が急激に伸長した時期にあたる。ただ、これはここで述べられているように、自力ないし地力によるというよりは、戦争という要因によって、ある意味では実力以上に底上げされたものであったという点は冷静に見ておく必要がある。



 明治末期に形成された北海道における工業の基本的構成は、一方に中央資本による大規模な化学工業(パルプ、製紙など)と金属工業(製鉄、製鋼、機械など)があり、他方に中小の中央及び地場資本による食品工業(醸造、製粉、製糖、乳製品など)と製材加工業が存在するという、二つの基軸構成によって説明されることが多い。20年から30年頃までの生産価額の比率は、食品工業30~35%、製材加工業6~7%、化学工業25~30%、金属工業10~20%であった。そのほかは紡織、セメント、電気等が数%ずつを占めていたのである。そして上記の基軸的業種における第一次大戦を契機とした大資本による独占支配の進行はきわだっていた。
 ……(中略)……。次に述べる北洋漁業の発展の結果、飛躍的に伸びた缶詰工業と製缶工業なども、この時代の工業成長の目玉といえよう。(p.224-225)


20世紀序盤の北海道の工業について簡潔にまとめられている。このように整理してみると、北海道の明治大正期からの伝統的な企業が次々と浮かんでくる。



 北洋漁業の最盛時39年の経営状況は、従業員4万2千人、使用船舶77万トン、缶詰工場57、冷凍工場5、冷蔵庫52、フィッシュミール工場6、生産額1億2千万円という巨大な規模に達した。従業員の大半は北海道、東北、北陸各地方の出稼ぎ者が占めたが、その労働条件は過酷であった。全体の4割以上を占めた北海道のほとんどが後志・檜山・渡島の三郡から出ているが、これは鰊漁業の衰退や凶漁の影響を受けた過剰人口の発生と関連している(『北海道漁業史』)。(p.226)


1939年というと昭和14年であり、鰊の漁獲高が急速に減っていった時期と言ってよいと思う。そこで半ば失業状態になった漁業労働力のある部分は北洋漁業で生計を立てるようになったということか。労働条件が過酷であったことは、小林多喜二の『蟹工船』などを読むとどの程度のものだったかの想像がつくように思う。



 一方民間でも、15(大正4)年に三菱鉱業、18年に三井鉱山、21年に住友本社などの大資本も続々と社有林経営を始めている。そしてこれらの動きは、大戦中の木材市況の好況と関連産業の拡大・発展にみあったものである。(p.226-227)


これは北海道の林業に関する叙述だが、私が想起したのは、台湾の烏来の歴史とのリンクであった。すなわち、台湾の烏来には1921年に三井合名会社が木材伐採のために入っており、1928年に木材や伐採のための機具などを運搬するために軌道が敷かれていたからである。ちなみに、この軌道は現在は観光用のトロッコで使用することができる。

北海道(最大の内国植民地)と台湾(最初の海外植民地)でほぼ同じ時期に本州大資本が進出して林業経営を行っていた。それぞれの地域で伐採した木材がどのように使われたのか、といったところまで興味が広がっていく。機会があればこうしたことまで調べてみたいと思う。



 流通商品を大本で取り扱う卸店は、もともと函館・小樽両港と札幌に集積し、西海岸地方は小樽の、東海岸地方は函館の商圏に属し、内陸部は札幌商圏と重なりつつ小樽商圏に属していた。明治後期から道東・道北各地の開拓が進み、旭川・帯広・釧路・北見・室蘭などの諸都市にも三大都市からの「のれん分け」という形での業者の進出が始まり、それは卸と小売りの分離を伴っていたのである。また、諸都市に大衆化をねらう百貨店(デパート)が成長するのもこの時期である。札幌の五番舘が12(明治45)年百貨店方式の販売を始めたのがデパートの最初といわれるが、同様の動きは小樽の大国屋その他にもあり、札幌を本店とし各地に支店を置く今井呉服店は16年に百貨店となり、以下、函館の棒二森屋の前身金森森屋、釧路の鶴屋、帯広の藤丸など地方都市に百貨店が出現し、32年に巨大な三越支店が札幌に進出した。これらは既存の小売商を圧迫したが、小売商側もさまざまな組織的対抗を行い防衛策をこうじた。(p.232-233)


卸の商圏も、江戸時代末期から明治期の流通体系を引き継いでいるところが見て取れて興味深い。札幌が内陸との繋がりを持っていたところも興味深い。小樽の商圏と重なっていたことは、小樽が札幌の外港であり、その意味ではワンセットだったということから見ても不思議なことではない。

北海道における百貨店の進出はちょうど大正から昭和の一桁あたりに進んだようだが、これは既に引用した通り、経済指標が1919年(大正8年)にピークを迎えていることと対応している。日本における最初の百貨店は1904年とされているから、首都・東京と辺境の地・北海道の違いが8年ほどしかないことになる。当時、いかに急速に百貨店が広まっていったかというのが見て取れるに思われる。

なお、小売商の組織的対抗のうち、もっとも重要なものは恐らく「商店街」の形成であるように思われる。「商店街」に関しては、新雅史の『商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道』がとっつきやすい上に興味深い考察を加えている。



 これまで見たように、第一次大戦をへて北海道の経済・産業は、成長と充実の段階に入ったが、昭和初期の不況によって一時は極端な疲弊状態に陥る。そこから回復し、順調に発展を遂げようという時に戦時の経済統制下に入ったため、一部の軍需産業の伸長や一時の軍需適応による繁栄部門を除けば、全体としては正常な発展の道をさまたげられ、戦争末期には、その弊害が全面的にあらわれることになる。(p.245)


とりあえず、20世紀序盤の大まかな流れはこのように理解することができる。



冬の交通・運搬用具としての橇、なかんずく馬橇の発達も特筆すべきもので、都市部・郡部をとわず多種類の馬橇が広く用いられた。昭和初期にその数は十万台を超えているから、自動車などと比較してその重要度が分かる。冬期の道路の本格的除雪や排雪が行われるようになるのはずっと後のことである。(p.248)


昭和初期の冬の交通機関としては馬橇が大きな位置を占めており、自動車の普及はもっと後だったという。今からは想像できない感じもするが、言われてみれば、自動車と言っても冬用のタイヤや寒冷地でもバッテリーが上がったりしないような仕様なども必要であり(現在も北海道で走っている自動車の多くは恐らく「寒冷地仕様」になっている)、当時の自動車にはそこまでの性能は期待できないだろうし、商業的に見ても、寒冷地でそれに見合うだけの需要があったとも思えないし、温暖な地域での需要さえまだまだ開発中といったところだったであろうと想像される。そう考えると、合点がいく気がする。



 不況に直面した巨大資本家や大地主は、北海道経済の植民地的性格に乗じて構造的変革をとげて危機を克服し、あるいはこの状況を利用して拡大を企て、または被害の回避につとめたのである。しかしそこには多くの矛盾があり、その爆発が第一次大戦後の労働争議や小作争議の頻発、失業者の大量発生、女性の身売り問題などの要因となったのである。昭和初期は、以上のような悪条件が一度に噴き出したような時期である。(p.249-250)


本書でもこれらについてはもう少し具体的には書かれているが、個別の問題を深く掘り下げていかないと、なかなか全体像がつかみにくい問題でもあるように思われる。



 言論統制の最大の事件は新聞(社)の統合である。国家総動員法に基づく勅令「新聞事業令」(41年12月)によって全国的に一県一社をめざす新聞統合がはじまった。34年、道内最盛期の日刊紙89の新聞社は、42年までには11社に整理されていた。42年3月、戸塚九一郎道庁長官は主な新聞7社(北海タイムス、小樽新聞、新函館、旭川新聞、室蘭日報、釧路新聞、根室新聞)の首脳を召集して、一、国家の要請により、全道各新聞社を解消して新たに一社を設立すること、二、これに反対し、独立して残存しようとしても理由のいかんによらずその存立は許さないこと、三、新聞の設立については関係者一同で自主的に協議すること、以上三カ条の統合方針を申し渡したのである。7社に十勝毎日新聞、北見新聞、旭川タイムス、根室新聞も加わった11社は、新しく題号を北海道新聞とする一社に統合され、北海道新聞社が誕生した。(p.269)


北海道新聞は現在では全国紙と比べるとリベラルな論調の新聞というイメージがあるが、こうした経緯があって設立されたものとは知らなかった。もっとも、こうした苦渋の歴史を持つからこそ、戦後の民主化が進展していく中で、リベラルな権力への批判精神の重要性を認識することができたという面があるのかもしれない。

国や道が示した3カ条の強権的な性格にも注目したい。現在でもつい2日ほど前に自民党が(参院選の公示に狙いを合わせてかどうかは知らないが)TBSに対して取材拒否をするなどという挙に出ているが、現在の日本の政党で最も報道の自由を侵害することを気にしない(言論統制の志向が強い)のは自民党である。

そして、その自民党は国民の権利を制限する志向と軍事力重視の志向とを持つ憲法改正案を提示していること、政権与党になっており、今回の参院選が終われば、以後3年間は国政選挙がなく、やりたい放題のことができることに対して十分想像力を働かせる必要があるだろう。



 住居は、戦前からのままだ。衣服も、それまでに買ったものがあった。婦人衣服の場合、モンペという戦時色の服装から解放され、カジュアルな服装でキモノ離れが進む。キモノと結びついた角巻きという雪国特有の風俗がだんだんと姿を消していく。(p.298)


これは第二次大戦終結直後に関する叙述だが、(少なくとも北海道の場合)和装から洋装への転換期はまさに第二次大戦終結にあったように思われる。先日、小樽市総合博物館で考現学に関する展示があったので見てきたが、そこでは昭和3年頃の市街ではまだ和装の人がかなりの割合で含まれていたことが写真や統計資料によって示されていた。「ハイカラな街」であったとして展示されていたが、私の感性からすると和装が想像以上に多く驚いたのを記憶している。そこで、洋装への転換はいつどのように行われたのか、という関心が出てきたのだが、本書の叙述を読んで、以上のような仮説に到達できた。



 歴史的に見ると、45(昭和20)年札幌は人口22万で、北海道内では屈指の都市であったが、まだ貫禄はなく本州他府県の都市と似たり寄ったりの変わりばえのしない“大いなる田舎”にすぎなかった。
 戦前、活気は函館に及ばず、商業活動は隣接の小樽の方が先輩格だった。
 しかし、ついに第二次大戦がそれを変えた。簡単に言えば中央の出先機関の進出を促す戦時中の統制経済によって函館、小樽が沈み、札幌が浮かんだ。戦時体制が強まると、小樽の対外・内国交易のドル箱であった樺太西海岸航路が米潜水艦の脅威にさらされて振るわず、函館も、応召などによる漁業者不足が「北洋」に響き、共に大きな打撃を受けた。36(昭和11)年札幌の人口が函館を抜き、北海道第一の都会となった。
 函館、小樽のマイナス要因の半面、札幌は統制経済を動かす行政機関や経済団体の東京―北海道ルートの結節点化がプラス要因となり、金融機関をはじめ、中央の会社や経済団体が「北海道の拠点」を置き始めた。
日銀は42(昭和17)年、札幌支店を設置する。(p.339-340)


従前の商業の結節点であった小樽は植民地的な位置づけにある樺太との中継が大きな意味をもっていたため、戦争により打撃を受けることになった(国内同士の流通より国境に近い場所の方が一般的には打撃を受けやすいと推察できる)。小樽よりは国内寄りの地域を商圏としていた函館も商業以外のもう一つの重要産業であった漁業の労働力を戦争のために持って行かれたことが経済的に響いた。

戦時中の統制経済の統制を行う機関が行政の中心地であった札幌に集中したことが、小樽や函館の没落に反比例して経済力が向上する要因となったということか。この札幌の興隆については、これまでも若干見知ってはいたが、その理由が十分理解できずにいたが、「東京-北海道ルートの結節点」となったという記述が、この問題に関しての私の理解を助けてくれた。もう少し具体的な事例を発見したら、その時点で再度考えを整理してみたい。



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