アヴェスターにはこう書いている?
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関秀志、桑原真人、大庭幸生、高橋昭夫 『新版 北海道の歴史 下 近代・現代編』(その2)

 前項でも触れたように、1890年代の北海道では、政治的な無権利状態からの脱却をめざして北海道議会請願開設運動が繰り広げられている。同様の動きは沖縄県でもみられたが、これらは府県において明治10年台に高揚した自由民権運動の北海道版であり沖縄県版であった。この請願運動は、1889年11月の憲法発布と翌90年11月の帝国議会開会を直接の契機として活発化した。なぜなら北海道は、自治制の未施行を理由に「衆議院議員選挙法」の適用が除外され、帝国議会に地域代表議員を送り出すことができなかったからである。(p.102)


選挙権が内国植民地である北海道と沖縄には本土並みには与えられていなかったということは銘記されてよい。



 日清戦争を契機に北海道への移民が急増し、1897年3月に公布された「北海道国有未開地処分法」によって道内における拓殖の進展はめざましいものがあった。(p.102)


日清戦争と北海道への移民の急増の関係はどのようなものか?直接の関係があるのか、あるいは社会経済情勢の反映か?こういったところが知りたいのだが、よい資料が簡単には見つからない。



 この結果、1905年当時の道内には、北海道鉄道株式会社線・北海道炭礦鉄道株式会社線の私営鉄道二社と官設鉄道線とが並立することになった。営業マイルはそれぞれ159マイル、207マイル、230マイルで官設鉄道が最長だったが、営業面では炭礦鉄道が最も優位に立っていた。だが、官設鉄道は内陸地方の拓殖に極めて大きな役割を果たしており、また北海道鉄道会社線の全通によって、東京-青森-函館-小樽-札幌-旭川間の連帯運輸が可能となったのである。このように私鉄二社と官設鉄道は、それぞれに特徴のある鉄道だった。(p.146)


営業面で私鉄が優位なのは、営業的に成り立ちやすいところで運営しているからであろうし、炭礦鉄道が最も優位であるというのは貨物(特に石炭?)の運搬があるからだろう。

官設鉄道が内陸の拓殖に寄与したというのも、統治の問題と関わることから納得がいく。



 拓銀の設置目的は「北海道ノ拓殖事業ニ資本ヲ供給スル」(拓銀法第一条)ことにあり、本店は札幌に置かれた。拓銀の公称資本金は300万円、株式総数は6万株だったが、うち2万株(100万円)を政府が出資し、皇室も67株を保有した。残りは一般募集されたが、4万株の募集に対して約60万株、すなわち約15倍の申し込みがあり、同時期の台湾銀行の株式申し込みが約4倍程度にすぎなかったのとは好対照であった。これは、内国植民地としての北海道開拓に対する内地資本の期待感の表れであった。(p.152)


北海道拓殖銀行が設置された1900年頃の状況。私は北海道開拓と台湾の植民地統治との関係について関心をいだいているのだが、拓銀と台湾銀行との比較というのも、その中に位置づけられる面白いテーマであるように思われる。

なお、台湾銀行への申し込みがそれほど多くないことが述べられているが、これは1900年前後では日本による台湾の統治は十分安定していなかったことを反映していると思われる。



 函館・小樽での商業会議所設立の動きに影響され、札幌でも1896年2月5日、倶楽部内で商業会議所創設発起人会が開かれた。そして、会員資格となる直接営業税3円以上の納税者の調査を行ったところ、120人以上という事前の予想を大幅に下回って60人にも満たず、この時期の会議所設立の認可基準である100人に達していなかったことから、会議所の設立運動は見送られた。このことは商業として発展してきた函館や小樽に比べ、政治・行政機能に中心を置いて人為的に設立された都市・札幌の経済力の実態を示していた。(p.155)


興味深い事実。



 最後に札幌であるが、函館や小樽が前近代からの歴史を持つ都市であるのに対し、札幌はこうした歴史を欠いており、明治期になって人為的に作られた都市であった。札幌における開拓使の本府建設は、開拓使設置後の1869年11月から始まり、一時中断された後に70年12月から再開された。71年には市街の区画割りが行われたが、その特徴は、市街が防火帯としての大通りによって南北に二分され、北地区が本府・学校・病院・官舎・官営諸港上を中心とする官地、南地区が民地=商業地とされ、碁盤目状の構造であった。72年には、民地の南端に官設の薄野遊郭が設置された。このように、札幌本府は官民区分の構造に加えて薄野遊郭の設置、そして官地と民地の境界には土塁・壕が設置されるなど近世の封建都市としての特徴を受け継いでいた。しかし、地番表示などにはアメリカの植民都市の影響がみられることも事実である。(p.160)


札幌の都市計画については、このブログでも何度も触れたが、官設の薄野遊郭が置かれたことと土塁や壕が設置されていたこと、アメリカの植民都市空の影響もある点などについては、このブログでは提示していなかった情報なので付け加えておく。

遊郭が置かれた薄野は現在も有名な歓楽街として存在しつづけている点は興味深い。何らかの断絶があったのかそれとも一貫して歓楽街であり続けたのかといった歴史に興味を惹かれる。



90年の第一階衆議院議員選挙に立候補して落選した加藤は、欧米を視察するなかでアメリカの先住民族問題の存在を知り、このことが後にアイヌ保護法案提出の伏線となる。(p.173)


引用文中の加藤とは加藤政之助のことで、彼は1893年の衆議院でアイヌを「保護」すべきだという法案を最初に提出した人物。

アイヌの保護に関して、アメリカの先住民族問題が一つの伏線となっていたというのは興味深い。

ちなみに、これとほぼ同時期の1904~05年にドイツからマックス・ウェーバーがアメリカを訪問しているが、ウェーバーもアメリカの先住民などの問題について若干知る機会を得ている。当時のアメリカではかなり大きな問題だったと推察される。


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