アヴェスターにはこう書いている?
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関秀志、桑原真人、大庭幸生、高橋昭夫 『新版 北海道の歴史 下 近代・現代編』(その1)

日本資本主義の発達には、資源の供給地・商品市場・民間資本投資の場としての植民地が求められたが、後進国だった当時の日本には海外植民地がなく、それに代わる「内国植民地」の役割が北海道に期待された。しかし、日清・日露両戦争(1894~95、1904-05)後、我が国はアジア諸国、台湾・樺太・朝鮮・満州に進出し、その植民地支配に力を注ぐようになる。内国植民地としての北海道の地位は低下し、さらに昭和期に入り日中・太平洋戦争時代になると、その役割を終えるに至った。(p.19)


海外植民地の獲得と内国植民地たる北海道の関係というのは、私としては管理興味がある問題なのだが、本書でもあまり詳しくは記述されていなかったと思われる。



 次に我が国の人口・社会問題とのかかわりで北海道の近代をみると、明治初期~中期には、明治維新に伴う失業が大きな政治・社会問題となり、士族授産と北海道開拓を結合した彼らの北海道移住が奨励され、それに国防目的が加わったのが士族屯田兵であった。また、明治中期以降は他府県農村における農民層の分解・地主制の成立過程で生みだされた大量の貧農の北海道移住が盛んとなり、北海道開拓の主力となった。(p.19-20)


移民の主体が士族屯田兵から貧農に変わっていったことは、北海道の歴史の展開を見ていく上で押さえておく必要がある基本的事項であると思われる。



旧来の蝦夷地・和人地の区別が撤廃されたため、旧蝦夷地に和人が進入し、アイヌ社会の崩壊が急速に進んだ。新しい移住者の多くは漁民で、その居住地域は主として海岸部であり、内陸部の農業移民の集落はまだ限られていた。(p.27)


1869(明治2)年の開拓使の設置から1886年の北海道庁の設置に至る時期の特徴についての説明より引用。

19世紀の間は北海道の主要産業は漁業であり、農業が主要産業となったのは20世紀になってからだったというのが、本書から理解した北海道産業の基本的な流れであった。士族屯田兵は内陸の開墾と開拓を行ったのだろうが、それはまだ産業的には十分な開花をしていなかったとしても、農業の発展はかなり長期間をかけて進んでいったのだろう



 市街区画は50間幅の後志通(今の大通)の広い緑地帯を基線として南北に分け、北を官庁街、南を商店・住宅街とし、南北に流れる創成川によって東西に分けた。60間四方が一区画で、東西、南北に11間幅道路を通し、その一区画を6間幅の中通りで二分した。このような街づくりは、奈良・京都などの古い都市を範としたものといわれ、72年には通りに、北海道の国郡名をつけた。それは住民に全道の国郡名を覚えさせるためだったといわれる。こうして、街は碁盤の目状に整然と区画され、道幅も広く、後の札幌市街発展の基礎が築かれたのである。なお、市街の町名が条丁目に改められたのは、81年6月のことである。
 札幌市街の景観は73年から著しく変わった。開拓使は次節でふれるとおり、前年から洋風建築の導入に力を入れ始め、この年には開拓使本庁舎・邏卒屯所(警察署)・病院・洋風官舎・西洋町長屋などが完成、その後も官舎・学校(札幌農学校・第一小学校)・官営工場・測候所・豊平館・博物場などが次々と姿を現し、少数ながらロシア式の丸太組み官舎・学校も造られた。こうして、大通以北はあたかもアメリカ西部の街のような景観を呈していたが、南の町屋街はそれとは対照的に、明治中期になっても、本州の伝統的な和風民家、商家が軒を連ねていた。(p.37-38)


札幌の市街地の展開も私の興味を惹くテーマの一つである。

開拓使は、公的な施設に洋風建築の導入に力を入れたことは現在残る歴史的建造物をみれば分かるが、それが一般に広がるまでには数十年の時間を要したことは押さえておいてよいだろう。公的施設が洋風建築として建ってから、民間の建築が建て替えの時期になってから取り入れられたということが見て取れる。また、明治後期には北海道の経済が著しく発展した時期にあたることもその大きな要因だろう。



 このようなケプロンの方針に基づいて、開拓使が実施した具体的事業については、次項以下で述べるが、1873(明治6)年ころからケプロンと黒田次官(74年長官)との意見の対立が目立つようになった。ケプロンの基礎事業重視、民営、自由主義に対し、黒田は国の財政事情などから収益を上げる事業を重視し、民間資本の不備から官営、保護主義の立場をとったことによるといわれている。
 開拓使が雇った外国人は78人に達した。国別では、当然のことながらアメリカ人が断然多く48人に達し、全体の約70%を占める。それ以外ではロシア5、イギリス・ドイツ各4、オランダ3、フランス1、中国13人で、中国人は通訳1、皮革・鞣皮工2人以外は農民である。アメリカ人の中では、ケプロンのほかウイリアム・S・クラーク(札幌農学校教頭)、ベンジャミン・S・ライマン(地質測量鉱山士長)などマサチューセッツ州出身者の活躍が目立つ。現在、北海道と同州が姉妹提携し交流を深めているのは、このような歴史的事情によるものである。(p.42-43)


ケプロンと黒田との路線の違いは、それぞれの立場や知りうる情報などに規定されていることが読み取れて興味深い。

また、マサチューセッツ州と北海道との関係の深さについての指摘があるが、単に「アメリカ」というだけでなく地域や人脈を考えながら見ていくとさらに興味深さが増してくるものがある。



 一方、住宅の改良については、官営の製材工場で生産した材木や柾を用いて、官庁・官舎・学校・屯田兵屋など公的な建造物の洋風化を図り、内部にはストーブを据え付けた。また、ロシアから3人の大工(ハムトフ、イワノフ、ノオパシン)と暖炉職人のモルジンを雇って、ロシア式の丸太組み官舎・学校・屯田兵屋などを建設したが、建築費が高い上にガラスなどの建築資材や大工が不足して、一般住宅には普及せず、屯田兵屋すら和風のものが大部分だった。この時代に導入されたアメリカ式の建築様式の影響を受けた一般住宅が姿を見せるのは、明治後期以降のことである。(p.53-54)


そのタイムラグについて認識することとその理由について考察することは興味深いテーマとなりうる。見本が提示されることと、それを模倣するための家屋の世代交代さらには経済的な豊かさの程度の違いが背景となっていることは容易に見て取れるが、それがどのように絡み合っていたのか解きほぐすことができればかなり興味深い研究となるのではないだろうか。



 漁村は古くから社会が成立していた道南地方と、漁業集落形成途上にあった道北・道東地方とでは大きな相違が見られた。新開地域の和人の定住集落は、まず近世の各場所の中心地だった運上屋や大きな番屋の所在地に成立し、市街地が形成され、そこに地方行政区域としての村が設定され、戸長役場や郡役所が置かれることが多かった。(p.74)


実地で違いを見較べてみたい。



なお、この地域の離島(焼尻・天売・利尻・礼文)は小樽との関係が深く、対岸の本島地区よりも早く集落が発達した。(p.74)


利尻や礼文との繋がりは漠然と感じることがあったが、小樽がかつての西蝦夷地の交易の中心的港になったことを考えるとこの繋がりははっきり見えてくるように思われる。



 中央道路以外の主な囚人道路には、市来知・月形間、月形・当別間、月形・増毛間、岩見沢・夕張間、標茶・厚岸間、標茶・釧路間、跡佐登硫黄山(現弟子屈町)・網走間、大津(現豊頃町)・伏古(現芽室町)間などがあり、この時期に開削された北海道の道路のおよそ半分は囚人道路だった。
 鉱山労働では幌内炭山の採炭労働と跡佐登硫黄山の硫黄の採掘・運搬がよく知られ、共に多数の死傷者、失明者を出した。特に幌内炭山は一時経営が空知集治監にゆだねられ、その後、北海道炭礦鉄道株式会社に払い下げられてからも94年まで囚人労働が続き、彼らの犠牲によって発展の基礎が築かれたのである。(p.92)


開拓使設置から北海道庁が設置されるまでの間頃についての説明。こういった負の歴史はよく知っておくべきであろう。


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