アヴェスターにはこう書いている?
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長沼孝、越田賢一郎、榎森進、田端宏、池田貴夫、三浦泰之 『新版 北海道の歴史 上 古代・中世・近世編』(その3)

 改めて言うまでもなく、このような「繁花」は、松前・蝦夷地から産出される豊かな海産物をもとにした活発な交易活動がその背景にある。寒冷な気候のために当時としては米作りが難しく、本州の多くの藩とは異なって農業生産に基盤を置かなかった松前藩にとって、他国との交易は領内の再生産活動のために必要不可欠であった。そのために、沖之口改め制度を整備し、松前和人地や蝦夷地を出入りする旅人や商船、海産物や生活必需品を厳しく統制して、役銭(税金)を課した。その拠点として位置付けられたのが松前三湊である。松前藩の城下町として政治経済の中心であった松前、西蝦夷地の漁業基地として交易活動で賑わった江差、幕府による蝦夷地直轄期には奉行所が置かれ、東蝦夷地からの海産物取引の中心地となった箱館、といったように、三湊それぞれの個性は異なっている。しかし、「繁花」の背景に交易活動があったという点では共通していた。(p.413-414)


三湊の個性の特徴づけが興味を惹く。箱館が東蝦夷地との関係が深く、江差が西蝦夷地との関係が深いことが見て取れる。函館は昭和時代になっても北洋漁業の基地として栄え続けたことを考えると、歴史の連続性が見えてくるようで興味深い。なお、西蝦夷地の中心的港湾は明治以降は小樽に移ると考えてよいだろう。



 このように活発に展開した交易活動を背景とする人や物の往来により、松前和人地には諸国からさまざまな文化がもたらされた。近江出身の大商人に由来する上方の文化、北陸地方出身の商人や船乗りなどに由来する北陸の文化、漁業稼ぎなどのために訪れた東北地方出身の人びとに由来する東北の文化など、これらがあいまって、松前三湊をはじめとする、松前和人地の文化が形成されたと言える。なお、幕末期の箱館には、開港にともなって欧米の影響を強く受けた文化も花開いている。(p.414)


松前和人地の文化についての叙述だが、明治に入ってからの北海道、特に(西部の?)沿岸部の文化の説明にもなりうるように思う。



 1854(嘉永7)年1月16日、ペリーは今度は七隻の艦隊を率いて江戸小柴沖に来航した。そして、再度の交渉の末、3月3日には前十二カ条から成る日米和親条約が締結された。この条約では、下田(現静岡県下田市)とともに箱館が開港地とされ、薪水、食料などの欠乏品の供給と遭難船員の救助などが決められた。箱館が選ばれた背景には、当時、日本の北方海域まで活動の場を広げていたアメリカ捕鯨船の存在があった。(p.434)


箱館(函館)が開港地として選ばれた背景は捕鯨船があった。ここでも北洋との繋がりが見える。



なお、幕府は、場所請負人からの運上金を蝦夷地経営の重要な財源の一つと位置付けていたために、アイヌへの不当な雇用労働を生む原因とされた場所請負制そのものについては、1858(安政5)年に「改革」を実施したイシカリ場所や、和人定住者の増加で次第に町場化したこともあって1865(元治2)年に「村並」としたヲタルナイ場所など一部を除いて、廃止しなかった。(p.474)


幕府はアイヌの生活より財政を優先させたと見ることができる。



なかでも幕府が重視したのは、「風俗」を「御国之髪容」に改めること、つまりは男性であれば月代を剃って髻を結い、髭を剃ることと、名前を和風に改めることであった(前掲『幕藩体制と蝦夷地』)。……(中略)……。
 この改俗について幕府は、例えば、先述した意見書に「古来より之仕来を改め」ることになるので「追々馴染付候様仕向」けることとあるように、比較的緩やかに進めていくことを意図していた。しかし、「場所」によっては、④のクスリ場所の事例にあったような、幕府役人による強制的で急進的な改俗が行われている。東蝦夷地ではクスリ、アツケシ、子モロ、西蝦夷地ではソウヤなど、ロシアに近い「場所」において顕著で、そこには、ロシアの脅威に対する領土確保の意図が込められていた(麓慎一「蝦夷地第二次直轄期のアイヌ政策」『北大史学』第38号)。つまり、万が一、ロシア側が蝦夷地を奪うために上陸しようとした時に、和風化されたアイヌの姿を見せることで<日本人>と思わせて上陸を諦めさせる、という狙いがあったのである。よりロシアに近いクナシリ島、エトロフ島でも同様の方針であったが、北蝦夷地(サハリン島)については、ロシアとの国境問題があり、樺太アイヌがロシアへなびくことへの危惧などから、強制的で急進的な改俗政策は進められなかったとされている(濱口裕介「幕末のアイヌ風俗改変政策と対ロシア問題」『洋学研究誌 一滴』第15号)。


風俗改変の急進度とロシアの危機の大きさとの関係は興味深い。



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