アヴェスターにはこう書いている?
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長沼孝、越田賢一郎、榎森進、田端宏、池田貴夫、三浦泰之 『新版 北海道の歴史 上 古代・中世・近世編』(その2)

 アイヌ社会の交易は、先述の商場交易によって深刻な影響を受けた。アイヌ側から松前城下へ出向くことが許されず、蝦夷地の商場でまっていなければならない、という仕組みとされたからである。その商場を知行地としている知行主、あるいはその配下の者、交易の委託を受けている商人が渡来するのを待っていて、その特定の交易相手とのみ交易することになったのである。松前まで出向いて良い交易相手に出会って(あるいは良い相手を探して)交易するという機会はないことになる。
 和人が主導的になりやすい交易の状況ということになり、交易品の交換比率も和人の利益中心に定められやすくなる。(p.253)


1633年に幕府の巡見使が松前に来るようになると、それまでアイヌとの交易は松前の城下で行なわれていたが、それが難しくなったため商場交易を行なう体制へと改められた(本書のp.246参照)。鎖国体制に伴い、国境管理の問題が生じ、その影響がアイヌの社会にも及んだということだが、和人側の都合でアイヌの社会のあり方も大きな影響を与えたことが見て取れる。



 シャクシャインの戦いの前段では、アイヌ勢同士の激しい抗争がくりかえされていた。シャクシャインとオニビシの争いについては先に触れたが、同じ頃イシカリの大勢力ハウカセも東蝦夷地の「ヘニ黒立」と抗争していた(「寛文拾年蝦夷蜂起集書」)。それはアイヌ社会に強大な政治勢力が登場しつつあることを示しており、抗争の勝利者がより強大な政治勢力となっていくという過程がすすむとみることができる情勢であるが、実際はその過程の進行は困難であった。各地のアイヌ勢力は和人との交易を通して社会、経済を支持する度合いを強めていたからである。
 ……(中略)……。
 松前藩の困難も相当に大きかったのであるが、アイヌ側の対和人貿易への要望も強かったので、その困惑が大きいほどに松前藩側は「刃物ノ類、武道具ノ類」すべてを没収する(「快風丸蝦夷聞書」)とか、前述した起請文のように服従の規制を定めるとか、蝦夷地支配体制を固めていくことができたのであった。(p.261-264)


1669年のシャクシャインの戦いの後、2~3年間は交易が途絶した状態となってしまい、そのことがアイヌと松前の社会を苦しめたが、これは結果として松前藩によるアイヌに対する優位性の確保に資することになったわけである。



 こうして鮭漁だけでなく、蝦夷地の商場一般が請負制のかたちで経営されるようになってくるのである。
 享保年代(1716~1735)のはじめには、場所請負制のはじまりを示していると思われる史料がみられる。……(中略)……。
 こうした事情で商場交易の赤字経営が続くと、知行主は交易権のすべてを商人にまかせてしまって運上金を請け取るだけの立場となるというわけであった。商人は利益追求の商略を練って商場交易を担当し、運上金を上納し、そのうえ商人としての利益も確保できるような経営を行なわなければならないことになる。
 場所の請負化は、享保初年から二十年余を経た元文年代(1736~40)には、ほとんどの場所に広がっている。(p.275)


1720年代前後にはじまった場所請負は10数年のうちに蝦夷地全域に広がったという。かなり急速な展開だと思われる。この場所請負制度がその後の蝦夷地の経済を規定する大きな要因となり、政治的な変動とも相乗して北海道の歴史の展開を大きく規定していく要因となる。



 「鯡漁之大場所」のシクヅイシ場所は、鰊以外の産物がないので「運上下直(値)」――運上金は低額である、とされていたが(「蝦夷商賈聞書」)、その後、住吉屋西川伝右衛門の請負のもとで鮭漁がはじめられ(1758=宝暦8年)運上金三十両を上納するようになり、「秋味切囲御場所」(1770=明和8年より、運上金五十両)、「海鼠引御場所」(1772=安永元年より、運上金三両、御礼金二十三両)と、種々の漁をはじめていた。ヲショロ場所でも同じ住吉屋の請負のもとで「鱒御場所」(1741=寛保元年より運上金十五両)がはじめられている。(p.277)


場所請負制度のもとで18世紀後半頃にはそれまでの鰊漁だけでなく様々な漁業が各地で行なわれるようになっていった。

引用文は現在の小樽市に関する地域についての記述。現在でも「シクヅイシ場所」であった祝津地域には鰊漁に関する遺構が多く残っており、一見に値する。



キリスト教禁令との関係もあって新寺院の建立は厳しく禁止されていたのであるが、蝦夷地には特別な配慮が必要と思われていた。ロシアが北千島でキリスト教を広めていること、それへの対応として蝦夷地に仏教を広めておく必要が考えられ、蝦夷地に働く役人や商人、漁民たちの信仰・葬儀・供養のためにも仏教寺院が必要だったのである。1804(文化元)年、ウス――善光寺(浄土宗)・シャマニ――等澍院(天台宗)・アッケシ――国泰寺(五山派)の三寺院が建立され、翌年にはそれぞれの住職も赴任した。
 ……(中略)……。
 なお、檀家のない三カ寺には米100俵、金48両、扶持12人扶持が幕府から給されることになっており、蝦夷三官寺と呼ばれることもある。(p.346-347)


ロシアとの国境を巡る緊張関係から蝦夷三官寺が建てられたわけだが、かつての日本にも聖徳太子などの時代に朝鮮や大陸との関係から仏教が持ち込まれたことに始まり、琉球王国と仏教寺院との関係、北海道開拓の時代にも本願寺の進出など政治権力と宗教勢力の関係は、いつの時代にも見られるものであり、政治的な現象としても読み解く必要がある



 レザノフの長崎来航、その通商要求拒絶のあと、日露関係が険悪となると、幕府は、それまでは松前藩にまかせていた西蝦夷地、カラフトも上知、松前藩は陸奥の梁川へ転封させて蝦夷地全域を幕府が管理することとなったのだが、新たに上知した西蝦夷地、カラフトでは幕府直営の場所経営は行なうことなく、松前藩が採用していた場所請負人らによる請負制をそのまま継続した。対ロシア緊張感が高まるなかで、蝦夷地警備体制のための出費は大きく嵩むことになる。商人の資力に依存する請負制の方が幕府の財政負担が抑制できることは明らかだった。東蝦夷地でも1813(文化10)年からは請負制が採用されるようになる。(p.347)


ロシアの動きに対抗するため直轄化が必要だが、財政上の理由や恐らくはアイヌと商人の両者からの大きな反発という危険を回避するためにも場所請負制度の存続という選択肢が採られたのであろう。ただ、幕府の直轄化のもとで場所請負制度が量的にもそして(次の引用文で指摘するが)質的にも拡大したことは見逃せないところである。



 こうして、蝦夷地幕領化の時期を通して場所請負制度は次のような特徴を加えることとなったのである。
 ①場所請負制はエトロフ、カラフトという国境地帯へまで採用されるようになった。……(中略)……。
 ②大商人による広大な地域の一手請負が広がる。入札による請負人の選定で資力ある大商人の進出が一層目立つこととなった。……(中略)……。
 ……(中略)……。後年、流域のアイヌ人口の大部分が河口部分に集められ、中・上流域一帯の集落が壊滅的な打撃を受けている状況を松浦武四郎が報告するようになるが、それは、この年代にできてきた場所経営の条件によるところが大きかったのである。
 ③場所請負制は蝦夷地全域について松前奉行がすべて掌握して管理する体制であった。松前藩の商場知行制のもとで藩主直領の場所、各藩士の知行所の場所、それぞれが各場所ごとに藩主あるいは各藩士と請負人との関係で管理されていたのとは大きく異なる仕組である。……(中略)……。松前家が復領で松前・蝦夷地に戻って来たとき、もとの商場知行制はとらず、藩主のもとで全ての場所を管理する方法をとったことにもつながっている。(p.356-357)


入札によって請負人が決まることから、資力の大きな商人が一手に多数の場所を請け負うことができることになったというあたりは、市場化による「一人勝ち」の事例となっている。

また、③の特徴は、商場知行制の下での場所請負制という分散的なシステムだったものが中央集権的な管理体制へと移行したことを意味している。



ラクスマン来航後の日露交渉が、すぐに継続されていれば交易開始へ向かう可能性はあったと思われるが、ヨーロッパ、ロシアの政情からしてロシアの対日交渉は継続しなかった(前述)。その後、ロシアの北太平洋地域での活動が活発化して1799(寛政11)年には、この方面の植民地経営の独占的特権を持つ露米会社が発足、その経営の維持、発展のためには、広東、日本との交易関係が非常に重要だと思われていた。広東での毛皮交易が、アメリカ、イギリスの手で活発に行われ、ロシアも、内陸のキャフタで行われる対中国毛皮交易よりも有利な広東での活動をすすめたいところであった。北太平洋から広東へ向かう航路の途中にあたる日本への寄港、交易は強く望まれていた。ロシアの北太平洋植民地の経営は、諸物資補給、特に食料補給の困難に苦しんでおり、植民地周辺の地域との交易で食料を安定的に確保する必要にせまられていた。(p.358)


アメリカなどが中国との交易の中継地的な意味合いで日本との交易を求めていた面があることはしばしば耳にするところであるが、ロシアも同じ面を持っていたということはあまり指摘されないように思う。この叙述は非常に参考になった。



知行主は自分の知行地のうちで行われる藩主の権利のもとの鱒漁などへ冥加金、御礼金などの名で課金を行うことがあったので、知行主の知行地、場所請負人に対する支配、統制力の強さは、商場知行制のもとでは、かなり、大きかったのである。復領後の松前藩では、もとの知行主への知行地の宛行を行わなかった。蝦夷地全域を藩主の直領として、家臣への宛行は何石・何人扶持(主君から家臣に給与した俸禄)と称されたが、すべて現金での給与であった。知行石高百石について金二十両、一人扶持は金二両という換算であった。
 梁川への移封となっていた時期も、家臣への宛行は、石・扶持で表していたが、現金、現米での給与を行っていたのであり、藩主のもとへ全収納を集約して、そのうちから家臣への給与を行う宛行の形は、梁川時代から引き継いだものでもあった。
 蝦夷地全域を藩主直領として、全場所の請負契約を、藩主のもとで一括して管理する方法も幕領期に松前奉行のもとで実施されていた方法と同一のものである。
 このようにして藩主の、あるいは藩政の中枢にいる家老職の者などの権限は強化された。場所請負人への統制力は一元化されて、藩財政上に場所請負の大商人らの資力を利用する便宜も強化されることになる。復領にあたって驚くほど莫大な借金を伊達屋、栖原屋に強請することができる背景には、前述までのような体制強化が働いていたのである。(p.367-368)


二つ前の引用文で引いた場所請負制の変容について、やや詳しく説明されている。

幕領期を挟んで、松前藩の統治権力やその財政面での構造が大きく変わったことがわかる。この変容の一つの側面としては、商人と藩とのかかわりの深さが増していくことが指摘できる。この関係のなかで商人側の力が強くなっていくことになり、場所請負制の問題点が噴出していくという面もあったのではなかろうか。



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