アヴェスターにはこう書いている?
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村井章介 『世界史のなかの戦国日本』

コシャマインの戦いののちにも、平時にはアイヌが館内に混住していた事実は、従来の「アイヌ対和人の戦い」という構図に大きな修正をせまるものといえる。(p.54)


アイヌと和人を過度に対立的に描く歴史叙述に対しては批判的な姿勢で見るのが妥当だろう。それは民族主義的な歴史観をあまりに強く引きずりすぎているように思われる。



 コシャマインの蜂起は、以後80年続くアイヌの攻勢の序曲にすぎなかった。……(中略)……。この間つねに軍事的にはアイヌ側が優勢で、和人側は謀略でピンチを切り抜けるしかなかった。(p.56)


確かにアイヌと和人の関係というと、現時点では和人が「勝利者」側に立っているということから勝利者史観の常でアイヌ側を低い位置において見てしまいがちである。しかし、アイヌを単に虐げられただけの、原始的で弱い集団であったとして客体化してしまうことには慎重であるべきだろう。アイヌ側の主体的な動きや、考え方などにSachlichに寄り添いながら歴史を見ていきたいものである。



 右の家康黒印状は、1592年以来の統一権力の北方政策を集約し、近世大名松前氏と松前藩の権力基盤を確立したものだった。その中核は、松前氏以外の者が松前氏の許可なくして松前・蝦夷島でアイヌと交易することを許さない、ということにある。これを幕府の外交体制としてみれば、対馬藩と朝鮮、薩摩藩と琉球の関係とならんで、境界地域で異国・異域との交通を管理するシステムの一環をなす。(p.62)


松前藩とアイヌとの交易は、薩摩や対馬と比べると何となく地味な感じがするが、これらと並列ないし関連付けながら理解していく方が理解が深まるようには思われる。私は、今後、北海道の歴史について少し知見を深めたいと思っているのだが、その際、この視点は重要であると思われる。



 翌1511年、アルブケルケの艦隊ははやくもマラッカ海峡を扼する交通の要衝マラッカにあらわれ、15世紀初頭以来明に朝貢を続け、南海貿易でさかえていたマラッカ王国を滅ぼした。ポルトガルはこの地に商館を置いて東方進出の拠点とした。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 この交易ネットワークは、ポルトガル人があらわれる以前からアジアに存在していたものであって、ポルトガル人は新参者としてそこに割りこんだにすぎない。ただ、それだけにネットワークの要に位置するマラッカがかれらの手に落ちたことの意味は大きかった。(p.117-119)


なるほど。単なる点と線で食い込んだだけにもかかわらず、相対的に大きな意味を持ち得た理由は、要衝を落としたことにあったということがわかる。そのために軍事力(新しい武器と政府のバックアップ)が背景の一つとなっていることには注目したい。



 当時の日本が一次産品である鉱物を供給する存在で、しかも海洋国家でない、という認識は、日本がアジア・ネットワークの東の辺境だったことを思い知らせてくれる。(p.121)


16世紀のポルトガル船が日本に来航した頃のこと。



ポルトガル船は1571年からは大村領の長崎に入港するようになり、国際貿易港湾都市としての長崎の歴史がここに始まった。
 1584年にはイスパニア船が平戸に来航し、松浦鎮信(隆信の子)を喜ばせた。鎮信はイスパニア船の帰航にさいし、イスパニア人を歓迎する意を述べたフィリピン総督あての手紙を託したが、イスパニアはポルトガルとの世界分割(デマルカシオン)にもとづいて日本貿易に消極的だったため、それ以上の進展はみられなかった。(p.159-160)


この引用文の前後で説明されている平戸と長崎の国際貿易港としての対抗関係は非常に興味深いものがあった。日本史においてポルトガルが来航するのに、スペインの影が薄いと思っていたのだが、両国の世界分割がその背景にあったというのはあまり考えたことがなかった。言われてみれば、という感じがした。



 1498年にバスコ=ダ=ガマがインドに到達して以来、東南アジア・東アジアに展開したポルトガルは、1557年に明朝からマカオ居住を許され、マラッカ・マカオ・長崎間に定期航路を開いた。これは日本銀が中国へ流れこむルートとなる。(p.169)


ポルトガルの植民地だったマカオもまた非常に興味深い都市だが、こんな時代からマラッカと長崎を結ぶ定期航路があったとは知らなかった。



たとえば、ヨーロッパ勢力まで参加している密貿易集団が、なぜ「倭寇」と呼ばれたのだろうか。
 この「倭」あるいは「倭人」とは、15~16世紀の東アジアのなかでもっとも国家的統合の弱体だった日本の西部辺境を根拠地としながら、朝鮮人や中国人をもふくみつつ登場した、いわば国境をまたぐ人間集団だ。かれらは、14世紀後半以来の明を中心とする冊封体制がゆるむにともなって、国家間あるいは公権力間の公的通交にとってかわって、この地域の人や物や技術の交流の主役になっていった。(p.186)


日本史で言うと室町時代から戦国時代にかけての時代だが、東アジアで最も国家的統合が弱体であり、先に引用しておいたように「アジア・ネットワークの辺境」であった日本に「倭寇」が根拠地を置くようになったというのは頷ける。この時代の東アジアのシステム内の関連性はなかなか複雑であるが興味を惹かれるものでもある。



 また窯業の分野でも、秀吉軍が朝鮮から連れてきた陶工が九州各地に磁器焼成技術をもたらし、17世紀前半には中国・景徳鎮の色絵磁器と肩を並べるほどの技術水準に到達する。明清交代の混乱による景徳鎮の一時的不振を埋めるように、有田焼(海外では積出し港の名をとって伊万里と呼ばれた)を中心とする北九州の磁器は、東南アジアやヨーロッパにまで販路を拡げた。(p.224)


なるほど。伊万里焼もまた、大航海時代後のグローバルな人・モノ・カネそして技術の移動を背景としているということか。興味深い。



しかし秀吉の朝鮮侵略戦争にともなう軍需物資の輸送には、各地の港町の有力海運業者が総動員され、結果として全国規模の有機的な物流システムを登場させた。これは中世にはなかった規模での物の動きであったにちがいない。
 この経験をひきつぐかたちで登場した本州を一周する東廻り・西廻り航路には、千石積クラスの大船が投入され、江戸時代における上方・江戸の二中心的物流構造を支えた。こうした海運の変貌は港町の盛衰に直結し、中世にさかえた港町であっても大船の繋留できない浅いところは没落を余儀なくされる。近世の海運が中世では想像もつかないほどの巨富の源泉であったことは、北陸の港町に残る北前船主の壮麗な屋敷が教えてくれる。
 以上に生産力拡大の例をいくつか示したが、それらはいずれも社会のなかから純経済的に自生してきたものとはいいがたい。戦国の権力分散状況を克服して中央集権的な支配システムを作り上げた統一権力が、さまざまな生産手段や技術力や労働力を有効に編成してはじめて、実現しえたものである。しかし逆に、かつてなく強大な統一権力の誕生を根底で支えたものが、この時期の生産力拡大であったことも事実である。
 統一権力の生成と生産力の拡大とは、どちらかが原因で他が結果だ、というような単純な関係ではなく、両者の働きがうまく相乗したところに、車の両輪のごとく走り始めたのである。そして双方のいずれにも、16~17世紀のアジアに生起した世界システムの変貌と、端緒的な資本主義世界経済との接触が決定的な作用をおよぼしていた。(p.224-226)


江戸時代の東廻り・西廻り航路ができる背景の一つに秀吉の朝鮮侵略戦争にともなう軍需物資の輸送があったというのは興味深い。

北前船主の邸宅の壮麗さも実際に見てみたいと思う。北海道にも北前船主が残した漁場建築群や住宅が若干残っており、私もそれらはある程度見たことがあるが、北前船主の本拠地である北陸にあるものは、北海道のような出先でのものとは比較にならないほど豪華なものだと聞いたことがあり、この目で見較べてみたいと思っている。

権力の集中化と生産力の拡大との相乗効果が再帰的ないし相補的なものであったという見方は重要だろう。「政治」や「経済」といったカテゴリーにとらわれずに両者の関係をみていく必要があると思う。



 現実の島津軍は、太閤検地の創出した直轄地からの年貢によってではなく、領内の武士たちの自力によって支えられていたことがわかる。そのような世界では、獲得した敵の首数が多いほど、期待される恩賞の額も多くなる。その結果、戦闘そのものの勝敗がはっきりした後も、ひたすら首取りに熱中することになる。……(中略)……。日本軍の朝鮮撤退を容易にしたという以上の意味はない泗川の戦いにおいて、首数や戦死者数があれほど膨大になった理由は、島津軍が中世的な「自立」の論理で行動したことにある。例の鼻削ぎも、倒した敵の数をもっとも簡便にカウントする方法として採用されたものだった。(p.264)


なるほど。



 従来は、単に琉球と島津とを敵対的に描き、なおかつ島津がつねに琉球の上位にあったとする“島津史観”が幅を利かせていた。しかしながら、手前味噌で恐縮だが、15・16世紀、琉球王国と交易相手先となった日本の勢力は、室町幕府→細川氏→大内氏→島津氏と変遷・重層化し(拙稿「撰銭令と列島内外の銭貨流通」」<『出土銭貨』9号、1998年>など参照)、さらに微細に見ていくと、16世紀前中期段階には、島津諸庶家や種子島氏、相良氏など、多種多様な通交主体が琉球側に臣従しつつ通交貿易を繰り広げていた(著者「古琉球をめぐる冊封関係と海域交流」<村井ほか編 『琉球からみた世界史』山川出版社、2011年>)。つまり、琉球王国が向き合っていたヤマトの勢力は、島津本宗家だけではなかったのである。そして驚くべきことに、琉球側は日本側諸勢力に対し、明確な優位を保つ時期さえあったのだという。(p.309)


橋本雄氏による解説より引用。

確かに、「島津史観」的な歴史観は、特に意識しないでいると「ヤマトの側」から歴史を見てしまいがちな日本の人々にとっては分かりやすい図式であり、陥らないように注意しなければならない考え方である。北海道におけるアイヌと和人との関係についても同様のことがここでも当てはまる。

日本に関する歴史の場合、特に、ヤマトの中央ないし最有力な権力者の側からの歴史観に容易に引きずり込まれてしまう傾向があるので特に注意が必要であると思う。他の地域に関する歴史以上に、日本が関わる歴史叙述を読む際には、こうした権力者側の視点や勝利者史観そしてエスノセントリズムには注意を要するように思う。


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