アヴェスターにはこう書いている?
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ゾンバルト 『ブルジョワ 近代経済人の精神史』

――そしてすべての経済活動の出発点は、人間の需要である。すなわち財貨に対する人間の自然の需要である。人間が消費するだけの財貨が生産されなければならない。支出する分だけ人間は収入を得なくてはならない。まずはじめに、支出がきまる。すると、それにしたがって収入が生まれる。私はこの種の経済実施の方式を支出経済と名づける。すべての前資本主義的ならびに前市民的経済は、この意味で支出経済である。(p.21)


前資本主義的な経済という限定は付しているにせよ、経済における需要の重要性を説いているあたりは、経済学の理論の多くがサプライサイドに大きく偏っていることを考えると重要な視座に立っていると言える。私のゾンバルトへの関心の一つもこの点にある。



 われわれは、広い意味で、次のものを企業と名づける。それは、実施するためには統一の意志のもとに多数の人々の協力を必要とする先見の明のある計画のあらゆる実現をさす。
 ……(中略)……。
 企業の領域は、人間活動一般の分野と同じように広い。したがってその概念はけっして経済的なるものに限定されない。経済的企業はむしろ企業一般の亜種であり、資本主義企業は経済的企業の亜種である。(p.80-81)


企業というと、どうしても経済的なものであるという先入観にとらわれてしまうが、このような、一般的な通念とは異なる独自の用語法によって、自明視しているものに対して自覚的になることができる場合がある。このことは読書の効用の一つでもあり、私としては久しぶりにこうした感覚を味わった。



しかし教会の組織の内部で、もっとも狭い本来の意味において、数多くの企業が発生した。修道院あるいは新しい司教区の設立は、中核では持綿紡績工場あるいは銀行の設立と同一過程をたどっている。(p.96)


修道院と近代資本主義との関係に着目する点ではウェーバーと共通している。



 商業(大商業)を営むということは、あのころ〔17世紀頃…引用者注〕では船舶を装備して武器でかため、戦士を募集してもろもろの土地を征服し、原住民を火縄銃とサーベルで打ち負かし、彼らの全財産を奪い、彼らを船に積み込み、母国の公けの競売場でもっとも高値をつけたものに売り渡すことであった。さらにそのひまひまをみて、チャンスさえあれば、外国船を捕獲することであった。商業とすべての植民地企業(それがヨーロッパ人の移住を目標としていないかぎり)を満たした精神は、したがって海賊の精神であったと私は考える。(p.111)


ウェーバーとの対比で言えば、ウェーバーは植民地支配などに関して語るところが非常に少ないということが浮かび上がってくる。



 金貸業においては、経済活動それ自体はすべての意味を失った。金銭の貸出活動は、肉体と精神の意味深い関与を完全に停止させた。これによってその価値は、活動自体をはなれ、成果のなかに置きかえられた。成果のみが、ただ意味をもっているのだ。
 ……(中略)……。
 金貸業においてはじめて、まったくはっきりと、おのれの汗を流すことなく、ひたすら経済的行為を通じて金銭を獲得する可能性が出現した。それにまったくはっきりと暴力行為をいささかも用いず、他国人をおのれのために働かせる可能性が現われた。(p.447)



金融というものの特徴をかなりよく捉えていると思われる。金融の持つ成果としての金銭を求める志向や一見暴力的ではない仕方で行なわれる強制などには敏感でありたいと思う。



 ともあれゾンバルトは、近代資本主義が発展し、高度資本主義となって大いに躍進したものの、第一次大戦の勃発をもってこれも終わりを告げたとみている。彼によれば、その後の後期資本主義は発展の飛躍性がなくなり、経済的弾力性を失い、人間でいえば老衰し肥満したありさまを示してきたという悲観的な見方をしている。この点、ファウスト的精神の消滅をもって西欧の没落のしるしとみたシュペングラーの所説と一致するところがある。両者にとっては二つの大戦の間にはさまれた時代は、まさに乏しき時代と映ったのであろう。それだけに、ますます創世期の近代資本主義の時代の精神をゾンバルトはたくましく躍動したものとして回顧している。(p.540)


訳者による解説より。

ゾンバルトもシュペングラーも当時のヨーロッパに対して悲観的な見方をしていたとされているが、この点は同時代人であるウェーバーとも共有している観念であると思われる。なお、ニーチェなどの思想もその背景の一つには、こうした悲観的な世界観があると思われる。



しかし、宗教と資本主義との関連についてはヴェーバーが明瞭な一元的な立場を示したのに対し、ゾンバルトはあまりにも多元的な立場をとり、それだけ弱点をさらけ出したといえないこともないであろう。(p.543)


ウェーバーの議論を「一元的な立場」と形容するのは適当ではないと思われる。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』だけを取り出して、それによって近代資本主義の唯一の起源を解き明かしたといった類の理解は不当だからである。訳者はそこまで極端な解釈をしていないとしても、叙述が特定の着眼点を「一面的に上昇」させているからといって、そのことは宗教と資本主義の関係を一元的に捉えていることを意味しないのである。

ただ、ゾンバルトの議論が多元的な立場をとっているがゆえに、そこに弱点が出ているというのは同意見である。私としては、個々の議論の論証の甘さやディレッタント的な世界観の投影などが目立つと見ている。血統や民族性などを前面に出して論証しようとしているあたりなどに、こうした弱点がはっきりと出ていると言えよう。

(付け加えると、ウェーバーも、民族性や血統のようなものの意味について、ゾンバルトと同じような意見や期待は持っていたようであるが、論文に不確かなことは書かないようにしていることが見て取れる。こうした禁欲的な姿勢で書かれていることがウェーバーの作品の方がより長い間、多くの人に読まれ続けた要因の一つだろう。)



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