アヴェスターにはこう書いている?
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阿部彩 『子どもの貧困――日本の不公平を考える』

 つまり、子どもが貧困状態で育つことは、その子どものその時点での学力、成長、生活の質などに悪影響を与えるだけでなく、それはその子どもが一生背負っていかなければならない「不利」な条件として蓄積されるということである。そして、それは単に「低所得」になるというだけで表されるものにはとどまらないかもしれない。子ども期の貧困というのは、あとから解消できない「不利」なのである。(p.24-25)


15歳時点の貧困と現在の低い生活水準との間に、他の要素の影響を排除した後にも相関がみられたという調査結果からの結論。あとから解消できない不利を負わせないためにも、他の年齢層にも増して子どもの貧困はできるだけ発生を抑制することが望ましいと言える。



図1-6は、1995年時点において20歳から69歳であった男女の学歴を父親の学歴別にみてみたものである(同右)。これによると、父親が大卒である場合は、本人も大卒である割合が66%であるのに対し、父親が中卒である場合は14%しかない。あきらかに、親が高学歴であると、本人も高学歴となる可能性が高い。貧困の連鎖の観点からみると、父親が中卒である場合は、子どもも中卒である割合が三割、高卒が約五割であり、大卒となるのは14%である。父親が中卒であると、子どもも中卒となる確率が高く、大卒となる確率は大幅に低い。(p.26)


この種の分析は割と多く出ていると思うが、それでも一般に十分知られていない。階層の固定化が進んでいる現在においては、このことを広く知らせることは重要であると思われる。



 第一に、子どもの基本的な成長にかかわる医療、基本的衣食住、少なくとも義務教育、そしてほぼ普遍的になった高校教育(生活)のアクセスを、すべての子どもが享受するべきである。「格差」がある中でも、すべての子どもに与えられるべき最低限の生活がある。これが「貧困基準」である。本書の題名が「子どもの格差」ではなく、「子どもの貧困」である理由はここにある。これは、「機会の平等」といった比較の理念ではなく、「子どもの権利」の理念に基づくものである。
 第二に、たとえ「完全な平等」を達成することが不可能だとしても、それを「いたしかたがない」と許容するのではなく、少しでも、そうでなくなる方向に向かうように努力するのが社会の姿勢として必要ではないだろうか、ということである。(p.37)


本書の主張が宣言されている箇所であるが、まったく同意見である。

「機会の平等」というリバタリアン的な考え方をする人々がしばしば持ち出す理念が、相対的な比較に基づく理念にすぎない点を明示し、それに対して「子どもの権利」というカント的な権利理論に起源をもつ平等主義的なリベラリズムと共通する理念を打ち出しているところが新自由主義が流行する昨今の中ではポイントの一つであろう。



 この二つは、根本的に異なる概念のように見えるかもしれないが、実は、それほど離れてはいない。ある社会で、何が「絶対的貧困」であるかは、その社会に存在する人々の考えによって左右され、その社会の生活レベルをどうしても反映してしまうからである。これを説明するのに、筆者がよく使う例は「靴」である。いま、仮に、靴が買えず、裸足で学校に行かなければならない子どもが日本にいたとしよう。日本の一般市民のほとんどは、この子をみて「絶対的貧困」の状態にあると考えるであろう。しかし、もし、この子がアフリカの農村に住んでいるのであれば、その村の人々は、靴がないことを必ずしも「絶対的貧困」とは思わないかもしれない。つまり、「絶対的貧困」であっても、それを判断するには、その社会における「通常」と比較しているのであり、「相対的観点」を用いているのである。(p.43)


絶対的貧困と相対的貧困の概念にはそれほどの違いはないという。確かにその通りだろう。ただ、相対的貧困の方が統計を使って誰でも簡単に提示できる便利さがあるというのはあるかもしれないが、絶対的貧困の概念の方が最終的には重要になってくる。なぜならば、人びとの実感に訴えかけるのは、こちらの概念に関わっていると思われるからである。

本書の後半で展開される「相対的剥奪」の概念を用いた議論を重ねると、「相対的剥奪」の度合いが高いことが「絶対的貧困」であるということだと言えると思われる。そうだとすると、その剥奪されてはならないものは何か、ということが社会的な議論の対象とすべきところとなり、それらを誰もが欠くことがないような状態が目指すべき状態であるとして社会的に設定することができるようになる。



実際に、保育所を利用する世帯の年間所得の平均をみると、その多くは共働き世帯であるにもかかわらず、幼稚園を利用する世帯の年間所得に比べ約50万円も低い。特に異なるのは父親の所得であり、幼稚園を利用している世帯の父親と、認可保育所を利用している世帯の父親の間には平均して200万円の格差がある。ただし、おれはあくまでも平均値の話であって、認可保育所を利用している世帯は実際には高所得層と低所得層に二極化しており、特にその傾向は低年齢児に強い(大石2005)。(p.87)


このことには、自分の経験からしても納得できるところがある。私は幼稚園に通っていたが、小学校に入って1年ほど経過した頃に自分の実感として実際に次のようなことを述べたことがある。幼稚園から来ている児童はおしなべて学校の成績がよく、保育所から来た児童は勉強についていけていない子がおり、成績の良いものは少ない、と。当時はもちろん、その背景に何があるかということなど知る由もなかったが、子どもでも実感できるだけの違いがあったということは自分の中ではかなり印象深く残っている。



 2000年には、三位一体改革の一環として、それまで国から補助金が支払われてきた公立保育所の費用が、地方自治体の一般財源によって賄われることとなった。これにより、自治体においては保育費用が一気に増加し、結果として、多くの自治体が保育費削減のための民営化を推し進めている。(p.88)


このような類の安易な削減を許してはならないだろう。補助金や地方交付税を減らすという形で「改革」を行なうと、一見すると一般庶民にはあまり関係がないと錯覚してしまう傾向があるように思われ、その点には注意が必要である。現在で言えば、日本維新の会やみんなの党などが「統治機構改革」などと語っていることが、これに相当する。



しかし、タウンゼンドの発見は、ある一定の所得以下となると、剥奪の度合いが急激に増えることである。所得にはある「閾値」があって、それを超えて所得が落ちてしまうと、生活が坂道を転がっていくように困窮に陥っていくというものである。
 ……(中略)……。これでみると、日本における「閾値」はおおむね世帯所得が400万円から500万円のあたりに存在する。(p.202-203)


重要な知見。


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