アヴェスターにはこう書いている?
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小熊英二 『社会を変えるには』(その6)

 まず現代社会では、中央制御室にあたるものはありません。だから、首相だけ替えても変わりません。
 その感覚の延長で、「首相でも替えてみるか」とばかりに支持率を乱高下させても、かえって不満がつのるだけです。既得権者をひきずりおろして君たちに分け前を与える、と宣言する僭主に期待しても、すぐに期待は裏切られるでしょう。「誰かが変えてくれる」という意識が、変わらない構造を生んでいるのです。買ったものに飽きて、新しいものを買い続けるように、新しい僭主に期待するしかなくなります。
 公務員を削れ、生活保護受給者を甘やかすな、競争原理を導入しろ、といった「新自由主義」はどうでしょうか。じつはそれは、自由主義経済学の思想家とよばれる、スミスやハイエクの思想とはあまり似ていません。それはむしろ、「自分はないがしろにされている」「他人のほうが恵まれている」「俺に分け前をよこせ」という叫びであるようです。
 第1章で述べたように、日本政府の強さは中央政府の指導力の強さで、国民一人あたりの公務員の数は先進諸国では少ないほうです。上のようなことを唱えても、望んだことは必ずしも実現せず、自分の首をしめるような結果になることが少なくありません。(p.438-439)


前段は湯浅誠も『ヒーローを待っていても世界は変わらない』でも述べており、このブログでも引用とコメントをつけた。

本書が湯浅の本より一歩踏み込んで示唆を与えてくれるのは、やはり再帰的近代化と絡めてこの問題を提示しているところであると思う。(ただし、本書の方が読み通したり理解するためにはより多くの知識や関心などを要するため、入門編としては湯浅の本の方が適しているようにも思う。)

新自由主義は本書が指摘するように「ないがしろにされている」という感覚を表現しているのは確かであると思われ、さらに付け加えると、その感覚に正当性の衣をまとわせる機能を果たしている点にも問題があると私は考える。



人間はたいてい、自分が個体論的な戦略論の対象にされると、不愉快になります。自分がお決まりの行動しかしない、操作可能な客体として扱われている、と感じるからです。逆にいうと、こういう戦略論は、味方にしたい人に適用するのは注意が必要です。相手を操作可能な客体として扱うと、相手もこちらを、操作可能な客体として扱っていいのだ、とみなします。(p.494-495)


なるほど。



 哲学や社会学では、「目的合理性」と「形式合理性」という区別をします。真理に到達するという「理」にかなっているのが「目的合理性」、そのための手段や道具としての論理性が「形式合理性」(道具的理性)と考えればいいかもしれません。(p.495)


これらの概念については、細かい概念規定に拘ると、いろいろと議論をする余地はあるかも知れないが、これは感覚的に理解しやすいという意味で面白い分け方かもしれない。



 盛りあがれば、「自己」を超えた「われわれ」が作れます。それができあがってくる感覚は楽しいものです。コンサートの一体感にも近いですが、平場の全員参加で作るところが違います。そういう盛りあがりがあると、社会を代表する効果が生まれ、人数の多さとは違う次元の説得力が生まれます。それが生まれれば、アピール性が増し、参加したくなる人が増えます。
 参加者みんなが生き生きとしていて、思わず参加したくなる「まつりごと」が、民主主義の原点です。自分たちが、自分個人を超えたものを「代表」していると思えるとき、それとつながっていると感じられるときは、人は生き生きとします。
 ……(中略)……。
 数よりも、そうしたことの方が大切です。「数が集まらない」「なぜ来てくれないんだ」「来なかったお前は裏切り者だ」とかいう感情が生まれるときは、楽しくないときです。ほんとうに楽しければ、「来ない人は損したね」となるはずです。
 そんなのは自己満足さ、この世はすべて自己満足さ、という人もいます。ほんとうに満足している人は、そいういうことは言いません。……(中略)……。
 それじたいが楽しいとき、目的であるときは、人間は他人に自慢したいとか、他人を貶めたいといった「結果」を求めません。受験勉強が典型ですが、ほんとうは楽しくなくてむなしい行為、アレントの言い方を借りれば「労働」をしながら生きているときに、他者と比べて自分の位置を測るとか、他者を貶めて優位に立つといった「結果」がほしくなるのです。(p.498-499)


「盛りあがる」ことで作られる「われわれ」はオートポイエティックなシステムであるように思われ、オートポイエーシスは再帰性が増大している社会に適合的なシステムであると思われる。しかし、これを分析しても、どうすれば「われわれ」が作れるかということの足しにはあまりならなさそうなところが私としては歯がゆい。これは運動の実戦のなかで作っていくしかないのだろう。



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