アヴェスターにはこう書いている?
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小熊英二 『社会を変えるには』(その4)

近代経済学と近代自由民主主義の特徴の一つは、「数量」を重視することです。票をできるだけ集め、市場取引の量をできるだけ多くする。この発想の出現を説明する必要があります。(p.308)


なるほど。この数量重視の考え方は、リベラリズムに見られる普遍主義や抽象性などの特性とも通じる特徴である。

ちなみに、本書ではこの発想の出現はベンサムの功利主義に求められている。



 しかし恐慌のなかで、どこの政党にも「われわれが代表されていない」という思いを抱く失業者たち、わけても第一次世界大戦の帰還兵で「社会の余計者」あつかいされていた若者たちが、共産党とナチスを支持しました。(p.326)


支持された者を小泉純一郎や安倍晋三、さらに石原慎太郎と橋下徹などに置き換えれば21世紀の日本の状況とかなり共通している。現在の日本は当時のナチス政権成立前夜のような様相であると私には見える。



 19世紀後半の産業革命の最中には、ニュートン力学と電磁気学によって、世界が全部把握できると思われていた時期がありました。帝国主義の最盛期でもありましたから、ヨーロッパが理性の中心で、世界を支配できるという意識とも結びついていました。
 ところが1905年、当時26歳のアインシュタインが特殊相対性理論を唱えます。……(中略)……。この相対性理論の提唱と前後して、絵画における空間の描き方でも、遠近法とは違う描き方をする現代美術が台頭します。(p.337-338)


「物理学帝国主義」という言葉があるが、ある意味、この言葉で表されるような、古典物理学の考え方のそれ以外の知識=科学への浸透(現在はこれは既に過去のものとなったが)もまた、帝国主義的なヨーロッパ列強の世界進出という世相が背景にあったと考えることもできそうである。

物理学における相対性理論や不確定性原理と同じ時代に、絵画でも同じようにニュートン的な絶対空間を否定するような相対主義的な発想が前面に出てきたというのは、興味深い事実であり、私も以前から関心を寄せてきたところであった。探求したいと思っているテーマは多いのだが、なかなか手を付けられずにいるのだが…。



 たとえば、尖閣諸島問題は、いつから問題だったのでしょうか。領海や排他的経済水域が陸地から12海里とか200海里で決められるという取り決めができる前は重要度は低く、もっと昔はどうでもよい岩の塊でした。1978年の日中平和友好条約の際も、ほかに重要な項目があったので、棚上げされました。
 過去の経緯をふりかえれば、明治の琉球処分のあとの1880年に、日本政府はそれに抗議する清にたいして、琉球列島のうち宮古島・石垣島など南半分を譲ってもよい、と提案しています。日清戦争でこの提案はうやむやになりましたが、尖閣諸島も割譲する範囲に入っていたことはいうまでもありません。
 もちろん歴史上には、日本政府の主張に好都合な史実もあります。しかしそもそも「領土」を明確な国境線で区切るという発想がアジアに入ってきたのは19世紀以降ですから、それ以前の「史実」を作った人たちは、そういう発想で考えて動いていません。住民が住んでいなくて、税金がとれなければただの岩でした。そういう「史実」をお互いが拾ってきて争っても、水掛け論になりがちです。
 さらにいうと、1972年に沖縄の施政権が変換されたあとも、尖閣諸島のうち二つの島は米軍の射爆撃場になっていて、日本側は許可なく立ち入れません。2012年に東京都知事が尖閣諸島を買うと宣言したときも、この二つの島は除外されていました。また96年に日本の右翼団体が尖閣諸島の一つに灯台を建てたとき、もっとも抗議したのは台湾の漁業者組織でした。
 つまり尖閣問題というと日中問題のようにいわれますが、日米関係でもあり、日台関係でもあり、中台関係でもあります。これを「日中関係」として考えるのは、「現実」そのものではなく、ある偏りをもって構築された認識です。
 こうした問題を、いつからどんなふうに右翼団体がとりあげ、マスコミがとりあげ、世論調査でも問題だと思う人が増え、政治家が「国益」と意識するまでになったのか。もとからあったのではなく、関係のなかで「国益」が構成されてくると考えるわけです。
 そうした認識に立つと、問題の解決のしかたが変わります。……(中略)……。関係論的な考えに立つと、問題がどうやって構成されてきたかを調べ、相互の関係と認識を変えることによって、解決をはかるという道が見えてきます。(p.356-358)


関係論的な認識を領土問題の解決に適用するという発想はなかなか興味深い。確かに、時間をかけて相互の認識を変えていくということが領土問題解決を容易にする一つの道だろう。

焦らず時間をかけて、政府の現実の行動は控えめにしながら冷静に認識を変えていくことが重要であるように思われる。日本と中国との関係については、ここ20年くらいの日本の右傾化も酷いものだが、中国の歴史認識は日本の極右の歴史認識並みに「個体論的発想」に立っているため、問題の解決は容易ではないだろう。




 これを応用すると、「人間の能力」も、関係が物象化したものです。たとえば、家族がそろってニュースや芸術番組をみながら夕食をとり、時事問題や芸術について会話があるような家庭で育った子どもは、お笑い番組をみながら夕食をとる家庭で育った子どもより、自然と「能力」が高くなります。意識的に教育投資をしたとかいうことではなく、長いあいだの家庭の人間関係という目に見えないものが蓄積されて、「能力」となってこの世に現れるわけです。
 たいてい、前者は経済的にも豊かで、親の学歴も高い家庭が多いので、経済格差や学歴格差が子どもの代にまで受けつがれ、再生産されます。これをフランスの社会学者のピエール・ブルデューは、「文化資本」とよびました。
 人間もまた、この世に現れてくるときは、関係の物象化した姿となります。文化資本の高い子どもは、「成績のいい子ども」「教養や美的センスやアイデアのある子ども」「学習意欲のある子ども」としてこの世に現れます。それにたいし文化資本の低い子どもは、「成績も悪く教養もなく趣味も悪くやる気もない子ども」として現れます。箸の持ち方、字の筆跡、ちょっとした振る舞いにいたるまで、過去の家庭関係の蓄積、つまり「文化資本」が現れます。あとから意識的に直そうと思っても、なかなかうまくいきません。(p.359-360)


最近実感としてよくわかるのは、この「文化資本」が低い環境で育ってきた人々は、「文化資本」が高い状態にあるとはどういうことか、ということについての理解があまりないことが多い、ということである。例えば、その効用やそれ自体の価値といったことについて、それを実感して育ってきている人とはまったく違う反応を示すことが多いように思われる。



 外部から一方的に説教されても、人が動かないのは、説教する側が変化しないからです。変化しない相手には、人間はおもしろみや愛情を感じません。自分がかかわっていける足がかりがみえないか、一方的に支配されるか、崇拝するかの関係しか想像できないからです。あとはせいぜい、お金や利害をやりとりして、相手を手段として形式合理的に提携するしかありません。
 ……(中略)……。
 対話をして人が納得するのは、対話の前とあとで、おたがいが変化し、より高い次元に至ったと思えるときです。(p.370-371)


確かにその通りと思える。人を説得しようと思うときは、自分自身も相手から何かを得られるようにすることが大事だということにもなるのだろう。また、これをちょっと応用すると、仮にそうでない(学ぶことがないと思うような)場合であっても、そのように(何かを学んだかのように)振舞うことによって円滑に関係が回っていくということもあるかも知れない。

余談だが、小さな子どもの子育てが面白いのも、子どもが成長して変わっていくからであり、その変化に応じて養育者の側も関わり方を変えていく必要が生じ、関わり方が変わることで両者の関係も次第に成熟したものになっていく、というプロセスがあるから、という面があるのではなかろうか。



 近代的な経済学や政治学などは、主体の行動と選択の自由度が増せば、観測と情報収集にもとづいて合理的に行動できるようになり、世界は予測可能になって操作できるようになる、と考えてきました。合理的に選択行動する人が増えるなら、ホモ・エコノミクスに近い人が増えるわけですから、政策科学で社会を操作できる可能性も増すはずです。
 ところが全然、そうなっていない。なぜでしょうか。
 それは近代科学が、主体は理性を行使するが、客体はたんなる物体だ、という考え方をしていたからです。
 ……(中略)……。
 現代の社会で増大しているのは、自由の増大というよりも、こういう「作り作られてくる」という度合いです。ギデンズは、これを「再帰性の増大」とよびました。(p.380-381)


近代科学が理性的な主体とそれによって操作される対象という二分法的な考え方に立っていたというのは、確かにそのとおりであるように思われる。(もちろん、細部ではこれを相対化するような言辞はしばしばみられるが、論理の大筋として見た場合には、このような考え方がベースになっていると考えることができる。)

私がここで想起したのは、私が最近関心を寄せているウェーバーの政治思想において、彼が「指導者民主主義」を唱えていたことであった。ここには社会を指導するカリスマ的なリーダーとその命令を聴くだけの大衆という主体と客体の関係が持ち込まれている。

再帰性が増大した社会では、このようなモデルで社会を運営していくことは社会の状態との齟齬が大きくなり、結果として不満を増大させることに繋がるだろう。ただ、その不満を次のリーダーを求めることで解消しようとしているのが、ここ20年間の日本の政治の傾向であり、この数年でこの傾向は強まっているものである。再帰性の増大した現代においては、この種のリーダー待望論を批判することにはやはり意味がありそうに思われる。

なお、最近私はルーマンの社会システム理論にも取り組んでみたいと考えているのだが、80年代頃に彼の理論が流行した(支持・参照する者がある程度現れた)背景には、再帰性の増大という事態があったと理解すると腑に落ちるものがあった。


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