アヴェスターにはこう書いている?
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小熊英二 『社会を変えるには』(その3)

 不正や暴力は、秩序の変動期で、新しいルールが定着していない時期におこりがちです。とくに人びとが共同体でまとまっていた状態から、「自由」になっていく状態に移り変わるとき、旧来の共同体にこだわると不正や暴力がおきます。(p.119)


同感である。



 家族でも政治でも労組でも、お金や暴力に頼るようになるのは、人びとが「自由」になってきつつあるのに、新しい関係に移ることを拒否して、旧来の関係をむりやり保とうとするからです。お金や暴力は、関係が希薄になってくるところに、関係の代役として入りこんでくるのです。(p.119)


確かに。お金や暴力=権力は、特に親密性に関係するような関係が弱まった時に働きやすい性質を持っているということであるように思われる。

余談だが、最近の私の関心から言うと、ルーマンのメディアの概念を使って整理してみると面白いかもしれない。



社会が上昇移動しているときは、若者の反抗は勝ちやすい。いまの日本のように下降移動しているときは、「きちんと就職しなさい」と説教する親に、「私はフリーターになる」と言って反抗するのは、ちょっと大変です。(p.133)


なるほど。

サブカルチャーで見ても、日本でフォークやロック(いずれも骨抜きにされる傾向はあったとはいえ権威や体制への反抗といったことをモチーフとしていた)が流行していたのは上昇移動していた(と感じられていた)時代であり、90年代以降のJ-POP(「オトナ」――即ち、かつての枠組から言えば「体制」側に分類されるであろう社会的な影響力の強い、名前のある人であり、具体的には小室哲也や秋元康のような人――が仕掛け人となって作られた、商品としての色彩の強い音楽)が遍く受け入れられるようになった時代は下降と停滞の時代であることにも相関があるかも知れない。



 しかし90年代後半ごろから、日本型工業化社会は、しだいに機能不全になっていきました。その表れの一つが、「支持政党なし」と答える「無党派」層、いわば従来の社会構造から漏れて「居場所がない」「代表されていない」と感じる人びとが増えてきたことです。(p.169)


なるほど。無党派層というのが自分たちの代表を持っていないと感じている人びとであるというのは、確かにそのとおりである。

私が本書から得た大きな収穫は、この「代表」という問題に気づかせてもらったことである。代表されていないと多くの人びとが感じていること、このこと自体が社会全体の不満を高めるし、不満があってもそれを表現されないことがさらに不満を高める。この不満がリーダー待望論にも繋がっている



 この「われわれの代表」という感覚が持たれているかどうかは、人びとを納得させられるか、正統性があるかに大きくかかわります。そのためには、「階級というわれわれ」や「州というわれわれ」といった、なんらかのまとまりがしっかりしていることが必要になってきます。意識や文化や生活様式のまとまりがあるからこそ、「彼はいかにもわれわれ労働者の代表らしい」とい納得も成りたつわけです。
 つまり代表というのは、単に「票を数多く集めた人」ではなくて、何らかの「われわれ」の代表なのです。(p
.192-193)


「われわれ」という意識と「代表」ということ、そして「正統性」の関連がハッキリ見えるようになったことが、私にとっては本書を読んだ大きな収穫だった。

代表する者が代表として認められるためには、代表される側のものがある程度のまとまりをもったものとして意識されている集団が必要であり、そのような集団を代表していると見なされていることが、正統性がある社会秩序の成立や正統性があると認められる決定の前提となっているわけである。



 そうなると、やはり重要なのは、議論が盛りあがることです。そうすると、参加している気持が高まり、「みんなで決めた」という気がしてくるのです。「みんな」ができあがった、といってもよい。「みんな」ができないと、その「みんな」に自分が入っている気がしないと、人間は納得しません。つまり盛りあがるというのは、「みんな」や「われわれ」を作るということなのです。(p.209-210)


このあたりはこうしてできあがる「われわれ」をオートポイエティックなシステムとして考えると分かりやすいように思われる。



 そう考えると、われわれはなぜ、日経平均株価やGDPや世論調査や政党支持率を、重要だと思うのでしょうか。日経平均株価が一般新聞の経済面以外に載りはじめたのは、1990年代末になってからです。GDPやGNPも、1950年代までは経済学者やエコノミストの専門用語でした。それ以前は、それらがそんなに重要なものだとは思われていませんでした。
 ……(中略)……。
 世論調査がマスコミをにぎわすようになったのは、2000年代になってRDDという調査手法ができて、ある程度信頼性の高い調査が簡単にできるようになってからです。しかしそれだけでは、それが重視される理由は説明できません。
 私が考えるには、そのころから人びとが「自由」になる度合いが強まり、国会の議席配置や首相の選ばれ方に、「民意」が現れなくなってきたと思う人が増えてきたからではないでしょうか。だから議席配置の代わりに、「民意」を可視化する手段として、世論調査が非常に重視されるようになってきたのではないかと思います。世論調査だけでなく、「マーケットの判定」もその一つかもしれません。
 もともと議席配置というのは、「民意」という目に見えないものを、この世に現す方法です。では世論調査や「マーケット」はどうでしょうか。これらの目に見えないものを、この世に現す方法が、統計という方法です。(p.233-234)


日経平均株価やGDPなどの経済指標や政治における世論調査や内閣支持率のようなものが重要だと考えられるようになってきたのは比較的最近のことだということ自体、興味深いが、そうした指標や世論調査などが重要だと考えられるようになった背景に人びとが「自由」になるという社会関係の変化があるという指摘には、なるほどと思わされた。



ルネサンスから17世紀までは、ヨーロッパは戦乱につぐ戦乱、宗教戦争と革命の時代になりました。……(中略)……。
 この時代は、人間の理性の幕開けであり、輝かしい時代だと、後年の歴史家からは神話化されました。しかし実際には、戦乱と下克上、グローバル化と技術革新で、それまでの秩序がめちゃくちゃになった時代です。そこから新しい考え方、近代的な考え方が出てきたといえばそのとおりですが、新しい考え方が出てくる時代は、たいてい不幸な時代です。人間は、深く考えないで生きていられれば、そのほうが幸福だったりします。
 そもそも、実験しなければわからないとか、自分を中心に世界を描くとかいうのは、非常に不幸な考え方です。もう何も信じられない、教会も聖書もあてにならない、信じられるのは自分の目だけだ、という考え方のどこが幸福でしょうか。会社も学校も政府もあてにならない、昔どおりにやっていたら没落する、自分で最新技術を手に入れて、自分を中心に考えて行動する人間だけが生き残れる、という時代です。(p.270-271)


中国の諸子百家が現れたのも確かに春秋戦国の時代であり、不幸な時代に新しい考え方が出てくるというのは、ある程度そういうところがあるかもしれない。モンゴルの大帝国が成立した頃などは、その勢力の及ぶ範囲内ではそれほど斬新な思想が現れなかったように見えることなどもこれと符合する。ただ、8~10世紀のアッバース朝におけるルネッサンスなど必ずしも一般的には当てはまらないところもあるようには思う。

いわゆる近代思想が不幸な考え方であるという指摘は、近代思想への批判を一言で分かりやすく言い当てている。




 ところで、自由主義と民主主義は、どこが違うのでしょうか。ごく簡単にいうと、自由主義は権力から自由になるのがいいという考え方。民主主義は、みんなで権力を作るのがいいという考え方です。
 ……(中略)……。権力を最小限にするのが自由主義の目的で、権力の内容はそれほど重視されないのです。王政にしろ民主政にしろ、権力は必要悪にすぎないものだから、小さければそれに越したことはない、という考え方です。
 ところが近代民主主義では、みんなで「われわれの権力」を作り、「われわれの意志」が反映されて運営されることが目的になります。「われわれの権力」になれば、よい権力ですから、大きくてもいい。(p.296-297)


自由主義と民主主義の性格を的確に表現しており参考になる。

現代の日本では自由主義の考え方が非常に強まり、民主主義が軽視されるようになってきている。私見では、民主主義と自由主義のバランスは、民主主義が主たるものとなり、自由主義は民主主義を補完するという位置づけが良いと考える。

「われわれの権力」をつくり、「よい権力」によって社会を統治する(すなわち民主主義)のが基本であるが、「われわれの判断」であっても誤ることはあり、また、いつのまにか「われわれ」が変質してしまうことも十分ありうることであるという前提に立って、社会を構成する個々人の権利を普遍的に擁護するために自由主義によって補完する、ということである。

その意味で、現在の日本では自由主義ではなく、民主主義の復権が望まれる


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