アヴェスターにはこう書いている?
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ヴェルナー・ゾンバルト 『ユダヤ人と経済生活』

 アメリカの植民地経済の基礎ができた、あの激動の数世紀には(そしてこれによって近代資本主義も生まれた)、砂糖の製造が(もちろんブラジルにおける銀の生産と金と宝石の産出を除く)、全植民地の国民経済の背景であり、これによって間接的に母国の国民経済を育成した。(p.71)


砂糖の生産と植民地経済というテーマは日本にとっても台湾を植民地化した際に経験していることであることもあって、興味を惹かれる。

川北稔の『砂糖の世界史』を私はこうした問題に関心を持つ前に読んだので、今後読み直してみると面白いかもしれない。



 アダム・スミスは、いかなる点でも、後の時代の経済生活を、冷徹かつ明瞭に写しだす鏡である。アダム・スミスの壮大なる学問体系には有価証券、株式市場、それに証券取引に関する学説のための余地が一つも残されていないという事実ほど、当時の独特な国民経済の姿――完成された初期資本主義――を現在の国民経済と比較対照させて写しだすものはない。証券取引所に関して一言も言及していない国民経済の完成された一体系がこれだ!(p.160-161)


スミスの思想については、遅ればせながら読んでみたいと考えていたところだったためメモしておく。株式市場に関する学説の余地が残されていないというのは、恐らく言い過ぎではないかと推察されるが、当時の経済ではこうしたことに言及する(ほとんど)必要がなかったという史料的な意味も持ちうるという点ではゾンバルトの指摘は妥当であると思われる。



 わたしの知るかぎり(わたしが正確な知識をもっていないオランダではどうやらすでに17世紀には解禁されていたらしい)18世紀中期まで、初期資本主義時代の長期にわたって、許されなかったものの一つに、商業広告、わけても商品宣伝があった。
 商業広告は、オランダでは17世紀中期、イギリスでは17世紀末、フランスではこれよりずっと遅れてさかんになってきた。(p.197)


ゾンバルトの記述は恐らく歴史的事実としては誤っているのではないかと推察されるが(日本でも江戸時代には「引き札」などある程度発達した広告があったことなどから推測)、広告の歴史というのも興味があるテーマである。



 しかし、商業広告成立後もなお長い間、商業誇大宣伝、つまりある商店が他店を出し抜いて厚かましく特別な旨味があると指摘吹聴することは、当然排撃すべきものとされた。商売敵よりも安価であると宣伝することは、商人の卑しさの最たるものとして見なされた。
 「廉価販売」は、いかなる形にせよ、不法であるとされた。「隣人に迷惑をかけてまで売るといった、度を越した投げ売りは、なんら祝福をもたらさない」のである。(p.199)


こういった考え方が18世紀頃のヨーロッパでどの程度普及していたかは措くとしても、廉価販売は(それをカバーするほど大量に売らない限り)所得を減らす効果があることを考慮に入れれば、社会全体としての持続可能な経済を維持することに繋がりうる発想であったと言うことができる。但し、グローバル化の進展はこうした考え方に基づく経営の条件を崩すものである。



 だが公共生活から排除されたことは、その埋め合わせとして経済生活面でのユダヤ人の地位を向上させたに違いない。(p.274)


これと同様のことはウェーバーも言っていたが、どちらが先に書いたのかは興味がある。



 このノンポリ性によって、彼らはしばしば体制の変革が行なわれるフランスのような国でも、各種各様な王朝や政府につかえることができた。(p.275)


党派的な色彩が強すぎないことが長期的には政治との関係を維持することに繋がることがあるという考えはそれなりに参考に値する。



それは、そもそもヴェーバーがピューリタニズムに帰しているなにものかが、実はかなり以前に、しかも後世になるとその割合をもっと増やした形で、ユダヤ教によってすでに実施されてきたのではないかという疑問である。いやそればかりか、そもそもピューリタニズムと名づけられているものは、その本質的特徴においては、もともとユダヤ教ではないかという疑問が出てくる。(p.292)


本書は随所で述べられているように、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』に触発されて書かれたというが、どちらかというと、それに対する批判として書かれていると読める。すなわち、ウェーバーが資本主義の精神を禁欲的プロテスタンティズムに因果帰属させようとしているのに対して、ゾンバルトはそれをユダヤ教に見出すことで批判したと読める。これに対して、ウェーバーが『古代ユダヤ教』においてユダヤ教と資本主義との関係を述べているが、その際、本書からの影響や本書への批判などがどのように展開されているのか(あるいは、いないのか)、という点には若干興味を惹かれる。



彼らは政治的には個人主義者である。彼らの感覚に適合している体制は、すべての関係が、明瞭に記載された法関係に帰着させられる「立憲国家」である。彼らは生まれながら、「自由主義的」な世界観の代表者である。その思考圏内には血肉を備えた個性豊かな人々ではなく、もともと民族間の違いも定かでなく、それぞれ質的特徴をもたない量的単位の総計である抽象的国民しかいない、こうした抽象的国民は、権利、義務を主張する一つの巨大な人間集団をなしている。多くのユダヤ人自身が察知していないとしても――たとえ彼らが、おのれのきわめて明らかな特性を否定し、彼らとドイツ人や、イギリス人との間になんらの差違はないと主張したとしても――やはり、彼らは他者を生き生きとした人間としてではなく、法的主体、国民、あるいはその他の抽象的存在として見ている。(p.414)


ここで描出されている「自由主義」の特徴は、本書出版の約70年後にマイケル・サンデルが批判することになる「リベラリズム」の特徴とほとんど一致していることに興味を惹かれる。


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