アヴェスターにはこう書いている?
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今野元 『マックス・ヴェーバー ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』(その2)

つまりヴェーバーの「官僚制」批判とは、自分自身の足で立ち、自分の言動に自分で責任を取ることのない「組織人間」に対する批判だったのである。……(中略)……。不思議なことにそういうヴェーバー自身が、実際にはツェドリッツ=トリュッチュラー、フーゲンベルク、アルトホフなど、官僚出身の政治家を次々と高く評価し、皮肉にも持論への反証を自ら列挙することになるのだが、それでも一般に「官僚」は機械の歯車であって生気がなく、「官僚制」は上司に従順で自己責任で決断できない人間だけを出世させる組織であるという印象を生涯維持し続けたのであった。
 今日でも官僚が政治家や報道機関、政治学者の攻撃対象となるのは日常茶飯事だが、そうした今日の官僚制批判とヴェーバーの「官僚制」批判とが必ずしも同一ではないということに、我々は留意しなければならない。今日の官僚制批判とは、官僚が実質的に強大な権力を掌握しながらデモクラシーの洗礼を受けていないことに対する懸念であり、官僚が安定した俸給や天下り先などの特権を享受していることに対する羨望であり、官僚が仕事上の不手際をしているのではないかという疑念であり、官僚が過去の前例や煩雑な手続きに固執することに対する軽蔑であり、選良集団としての官僚(特にその幹部候補生)に対する一般人の嫉妬である。ところがヴェーバーの「官僚制」批判は、この種の一般的な官僚制批判とは趣を異にするものであった。ヴェーバーは感情に流れやすいデモクラシーを牽制する機構としては官僚制を寧ろ好意的に見ており、国家の雇用者として俸給などが保障されている点では大学教官の彼自身も同じ特権保持者であり、仕事上の優秀さに関してはドイツの官僚は傑出していると確信しており、厳密な手続きは寧ろ合理化の産物として評価しており、若いころから令名が高く30歳で正教授となった彼にとって官僚人生が嫉妬すべきものであったとも思われない。ヴェーバーの「官僚制」批判とは、とにもかくにも独立自尊の人間を求める彼の内なる欲求の為せる業だったのである。(p.132-133)


ウェーバーの官僚制への批判も彼の「独立自尊の人間」を求める世界観(価値観)と結びついたものであったことはその通りであろう。

行政官僚制について言えば、組織として「個人の責任において仕事をしてはならない」ことを格率としているのだから、この組織に属して仕事をしている限りにおいては自らの判断で行う政策であっても、その個人だけには責任が帰属されないのは当然のこととしなければならない。

その意味で、ウェーバーが官僚出身の政治家を高く評価するとしても、それは本来は矛盾とはならないものである。ただ、「官僚組織に所属している人間=個人の責任で仕事をする能力がない人間」と捉える場合、矛盾となる(本書によればウェーバーはこうした印象を持ち続けたとされている)。しかし、「官僚組織に所属している人間=組織の中で仕事をしている限りにおいて個人の責任で仕事をすることが許されていない」ということでしかないのだから、組織外で仕事をする場合には、当然、「独立自尊の人間」でありうるのである。さらに付け加えるならば、「選良集団」に属することができた官僚などには、平均的に言って、ウェーバーが求めるような主体性を高度に身につけている人間が多いのではないか、というのが私の見立てであり、それはウェーバーが「持論への反証」を多く挙げていることとも合致すると思われる。

むしろ、私としては、ウェーバーの官僚制批判における感情に流されやすいデモクラシーに対する牽制としての意味合いは高く評価すべきものだと考えている。その意味で、「脱官僚」などという発想は、政府の持続的運営にとってマイナスになるだけであり、いかに官僚機構とうまく付き合っていくか、すなわち、政治と官僚の長所をいかにうまく組み合わせることが出来るか、ということこそが問題なのである。



 ヴェーバーの列強観は、国制権力政治論と比較政治文化論との二重構造になっている。国際権力政治論とはドイツの合従連衡についての戦略的思考であり、比較政治文化論とは各国家の政治的・文化的内情についての考察である。ヴェーバーは各国家の軍事力を、その国の人々の「文化」水準から推測する傾向にあった。ヴェーバーの見るところ「文化」の高い人間たちによって構成された国家の軍事力は強靭で、「文化」の低い人間たちによって構成された国家の軍事力は脆弱なのである。言うまでもなく双方の議論は、決して相互に無関係ではない。ヴェーバーはまず比較政治文化論によって各国家の軍事力を測定し、その成果をもとに国際権力政治論でドイツの同盟戦略について議論したのである。(p.234)


ウェーバーの政治評論を理解する上で参考になる指摘。

「知の巨人」と崇められてきたことさえあるウェーバーだが、素朴で素人的な政治観に立脚していると言える。そして、こうした素人っぽさとポーランド問題における一点集中的な関心に基づく議論とは相関しているものと考えられる。



ヴェーバー「デモクラシーにおいては、人民が自分の信頼する指導者を選ぶのです。そして選ばれたものが言うのです。『さあ口を噤め。そして言う通りにしろ。』人民及び政党はもはや彼に口を挟むことは許されません。」ルーデンドルフ「そんな『デモクラシー』なら、私としても好きになることが出来るのだが!」ヴェーバー「もし指導者が過ちを犯したら、のちい人民が彼を絞首台に送ることが出来るのです!」(p.320)


ここで率直に述べられているようなウェーバーのデモクラシー観には違和感を抱く人は多いのではないだろうか。

現代の日本では自分たちで決めるというのではなく、自分にとって都合の良い決定だけをしてくれるヒーローたるリーダーを求める風潮が強い。その意味で、ウェーバーが述べるようなデモクラシー観に対して批判をしておくことは無意味ではないように思われる。



 西欧派ドイツ・ナショナリストとしてのヴェーバーの分析の結論は、以前筆者が仮説として提示した「知性主義の逆説」という発想に集約される。政治的近代化とは、なおも残存する身分制の伝統や教会の権威といった旧体制の桎梏から人間たちを解放し、知的に覚醒した自由で自立した、本質的には平等な個人たちの共同生活に見合った政治制度を目指すという解放の過程である。しかし政治的近代化が予定しているような人間の知的覚醒は、その信奉者たちが予想しているのとは異なり、いつでも、どこでも、誰でも同じように達成できるものではないという現実がある。従ってそこにいつの間にか個人間、人間集団間に新たな序列が生まれ、そこに新たな支配従属関係が生じてしまうのである。また覚醒した個人や人間集団は、自我に目覚めてしばしば衝突し、その衝突を調整する仕組みは存在しないため、結局は何らかの序列を構築しないと共存が出来ず、それが構築できない場合には厳しい反目状態に陥ることがある。ヴェーバーがポーランド人、ロシヤ人、イタリア人、アイルランド人、カトリック教徒、(一部の)ユダヤ人に懐いた優越感、アングロ=サクソン圏の人々に対する劣等感や焦燥感、ドイツ国内におけるヴェーバー周辺の知的権威主義は、こうした「知性主義の逆説」の枠組で理解されるべきものである。(p.368)


本書の結論的な部分。

特定の一つの基準に基づいて物事を評価する場合、同様の序列関係は発生する。ウェーバーの場合は、知性主義的な人間観が基準となっていることが本書で提示されている。

ここからは「政治的近代化」が想定する個人には無理があるのではないか、という疑問が提起できると思われる。そして、これはリベラリズムやリバタリアニズムに対する批判につながるものであろう。



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