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アヴェスターにはこう書いている?
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今野元 『マックス・ヴェーバー ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』(その1)

何故ヴェーバーがそのように主張するようになったかと言えば、それは彼が自分とは相容れない年上の教師たちの講義に、とりわけベルリン大学におけるトライチュケの講義に違和感を懐き、これに一部の学生たちが熱狂するのを目にして、苦々しく思ったからに他ならない。しかし他者批判として生まれたヴェーバーの誡律は、大学教師であるヴェーバー自身にも、やがてはブーメランのように向かってくる。(p.109)


「職業としての学問」などで有名ないわゆる「講壇禁欲」の主張が生まれる際のウェーバーの体験に基づく動機。

ブーメランのように戻ってくるとしても、厳しい戒律を完全に遵守しきることの難しさを考えれば、完全に守れていないということを以て非難するには及ばないだろう。ただ、ウェーバー自身も完全には守れていないということを示しておくことは「聖マックス」信仰のような偶像化を進めないようにするためには必要であると思われる。



ちなみに我々は、ヴェーバーの政治論に二種類の異なる「文化」概念を見る。第一は、「ポーランド人は文化が低い」という場合の、人間の成熟度を図る普遍的基準としての「文化」であり、第二は、「ドイツ文化の独自性を守れ」という場合の、「ドイツ人」など特定の人間集団固有の営みとしての「文化」である。この就任講演にすでに萌芽が現れ、第一次世界戦争中の政治評論でより鮮明になるのだが、ヴェーバーはドイツ「文化」(第二の意味での「文化」)がイギリス、フランス、ロシヤなどの「文化」に伍して繁栄することを望んでおり、かつドイツ「文化」はポーランド「文化」やロシヤ「文化」よりも「文化」(第一の意味での「文化」)の面でより高いと考えていたのである。(p.112)


ウェーバーは、学問論としては一義的な定義で用語を使うよう要請するが、彼自身の政治評論ではそうした格率は完全には守られていなかったことが分かる。

なお、この引用文の指摘は、ウェーバーの政治論を読む際のガイドラインとして役立つと思われる。



 個々の人間の主体性が、その所属する階級の国内権力政治における主体性を支え、切磋琢磨する個々の階級の主体性が、その所属するドイツ国民国家の国際権力政治における主体性を支えるという議論こそ、ヴェーバーが1890年代の政治評論を通じて編み出したものであった。そしてこれがこのフライブルク講演によって明確にされたのである。この発想は、重点の置き方に変化があっても、基本的にはヴェーバーの政治的生涯を貫くものとなった。(p.113)


この指摘もウェーバーの政治論を読む際のガイドラインとして役立つ。ウェーバーの方法論的個人主義とも通じるものがある点にも興味が惹かれる。これをウェーバーの世界観として理解すると、方法論、宗教社会学、政治評論のいずれにも通底していることが容易に了解されるように思われる。



けれどもこの時期に発表されたヴェーバーの数少ない政治的発言の内容を見てみると、そこには彼の神経症前の基本方針とその情熱的口調とが、そのまま生きているのが看取できる。神経症がヴェーバーの人格を一変させたかのような「近代批判」的ヴェーバー解釈は、実証的に疑問の余地があり、とりわけ彼の政治的言動に関しては全くの誤解である。(p.117)


主に90年代以降に提出されたポストモダン的ないし近代批判者としてのウェーバーというウェーバー解釈には疑問の余地があるということは押さえておくべきと思われる。



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