アヴェスターにはこう書いている?
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クリスタ・クリューガー 『マックス・ウェーバーと妻マリアンネ 結婚生活の光と影』(その1)

世紀転換期までは、人文主義的なギムナジウムで行なわれる大学入学資格試験(アビトゥーア)が大学入学のための避けることのできない前提であった。その後やっと、実科ギムナジウムや古典語を必修としない実科高等学校の終了資格が大学入学の許可書として受理された。ギムナジウムの生徒たちは、教養市民あるいはかなり高位の官吏の階層のなかから、ほとんど他の階層を排除する形で入学してきた。授業の重点は古典古代の言語と作品と歴史であり、自然科学はほとんどなかった。これはすべての「唯物論的なもの」を軽蔑し低く評価するという一種の思い上がった精神にもとづいて、さらにドイツ人こそ伝来の文化価値のすべての擁護者であるとするナショナリズムによるものであった。このような市民層のものとしてのギムナジウムには、1848年の革命の失敗の後にもたらされた市民階層の諦念が刻み込まれている。(p.64)


19世紀後半のドイツの高等教育をめぐる状況として押さえておきたい。



 もっとも、1897年、結婚して四年目に、彼らに過去が再び追いついたように見えた。当時ハイデルベルクに住んでいたマックスとマリアンネは、ヘレーネ・ウェーバーに訪ねてきてくれるように招待した。しかし、ヘレーネはマックスたちが計画したように、一人では来ないで、父親のマックス・ウェーバーが彼らの意向に逆らってついてきたのである。家族には隠していた重い病気のために、彼は不安になり、興奮し、そのために妻なしに過ごすことができなかった。このような背景を知らなかった息子は、ヘレーネの意向を無視する父親の専制主義に対して激しく怒った。彼はついにあからさまに母親の味方をし、もしも父親がヘレーネに毎年数週間、一人でハイデルベルクへ彼女の子供たちの所に旅行することを許さないなら、父親とのあらゆる関係を断ち切ると脅かした。父のマックス・ウェーバーはそれを聞いて憤慨し、いたく感情を傷つけられ、息子の家を立ち去った。(p.71-72) 


ウェーバーの精神疾患の開始の契機になったと考えられている、父親との喧嘩について、比較的詳しく内容が書かれている。父も病気のためヘレーネなしには過ごすことができない状態だったということは、本書で初めて知った。



 1894年、マックス・ウェーバーが初めて招聘を受けて、フライブルク大学での国民経済学の講座を引き受けた際に、新婚早々の二人は転地してベルリンの両親と別居できることを、心も軽く期待に充ちて待ち受けている。ジークムンズホーフの自分たちの住居は、シャルロッテンブルクの両親の家からあまり離れてはいなかった。いわば、親の家の「蔭に立って」いた。ほとんど毎日のように、家族の使いの者がやって来て、若い所帯がきちんとやっているかを確かめたのである。今やとうとう、若いカップルは彼らの生活を自分たちの望みどおりに形づくることができるように思えた。
 マックス・ウェーバーにとって、リベラルなバーデンへの転地は格別に解放的に感じられた。それというのも、この転地によって、<啓蒙独裁者>アルトホフの干渉から逃れることができたからである。(p.80)


私は以前、ウェーバーの年譜を作成しながら、住所なども比較的細かいところまでチェックしたことがある。それを補完する情報が掲載されているのでメモしておく。



 グロックナーの『ハイデルベルクの絵本』は、20世紀の20年代の有名なハイデルベルクの知的生活がほとんど輝きを失った側面を、あれこれ文学的に手を加えて強調したという印象を与える。もしもウェーバーのこれらの逸話がウェーバーの発病の後、遠からぬ時期に書かれたのであるならば、それらはウェーバーの精神と身体能力を予感させるものとして読み取ることもできるかもしれない。
 若いウェーバー夫妻の自称するところでは、彼らは旧市街の単純朴訥な隣人をからかうために、夜分に酔っぱらった教授とその気の毒な妻の芝居を演じた。マックスは鞭で革の枕をびしびしと打って、マリアンネはそれに対して大声で悲鳴を上げたというのである。マックス・ウェーバーの白昼夢の物語になると、疑いはもっと濃いものになる。つまり、酒を飲み明かした夜の後では、時々奇妙な強迫観念に悩まされると言い張った、というのである。そんな時、彼は自分が大きな象、ジャンボーであると思い込む――それは夢のように美しい強迫観念であり、そうした際には、彼は動物園に住み、しかも一匹ではなくて、そこには「たくさんの女たちがいるんだ!もしもそんなに大きい鼻をもてたら、どんなに素晴らしいかと君たちは思わないのか!」(p.89-90)


『ハイデルベルクの絵本』なる本にはどんなことが書いてあるのだろう?ちょっと読んでみたくなったが、ざっと検索した限りでは邦訳はなさそうだ。



 1897年に彼はハイデルベルク大学からの招聘を受けて、母方の実家の住所に戻るが、この都市で彼は子供の頃にしばしば休暇を過ごしたし、学生としても二、三学期をここで学んだのだった。ハイデルベルクはリベラルな大学のうちでも最も有名であり、そこに招かれることは大きな名誉であった。(p.91)


こちらも年譜の補足資料としてメモ。



ヴォルフガング・モムゼンによって最近発見されたウェーバーの「性関係と結婚との発展と結婚における女性」と題した覚書きは、マックスが妻のために『原始的な性的結合と合法的な結婚』についての彼女の本の最初の章の構成の見取り図を書いたものと推測される。(p.123)


本書を読むまで知らなかった文書が取り上げられていたのでメモしておく。



ウェーバーは、1907年に新たに神経失調に脅かされているのを自覚して、七月の初めにハイデルベルクの神経医に助言を求めたが、その医師に彼は六月中に「病気の病理学的査定、発生、経過についての報告書」を書いていた(この報告書はウェーバーの遺品のなかにあったが、おそらくは医師に結局は渡さなかったのかもしれない。マリアンネはそれをヤスパースに提供したが、後に1933年に返してもらった。これらの記録文書がヤスパースの家宅捜査の際にナチスの手に落ちて、マックス・ウェーバーの死後の中傷に悪用されることを怖れたからである。その後、マリアンネ・ウェーバーはこの病気報告書を破棄してしまったが、それは彼女もまた安全な保管場所がどこにもないと信じたからであった)。(p.144)


この報告書のことも、いろいろな伝記的著述で言及はあるがあまりよくわからなかったもののひとつである。本書は他の文献よりは経過が分かるように書いてくれているのでメモしておく。



マックスは彼女に助言して、彼女抜きでヤッフェ夫妻と一緒にさらにヴェネチアに行く。ヴェネチアでは、マックスはエルゼと二人きりになろうとすれば、彼の習慣に全く反して、グリニャノでのように朝早く起きねばならない。そうすれば、彼女が彼女の夫と朝食で落ち合う前に、二人でゴンドラに乗れる短い時間がとれるのである。眠れぬ夜の後で十月の朝の七時前にカナール・グランデ[大運河]をゴンドラで行く者は、熱い感情ではなしにむしろ冷気と歯がガタガタ震えるのと戦わねばならない。このことだけからも、マックスとエルゼが1909年10月にヴェネチアで恋仲になったと推測する数人のウェーバー研究者たちの仮定に有利な証拠はほとんどない。(p.165)


エルゼとの関係については、古いウェーバー研究書ではほとんど触れられることがなかったこともあり、私もまだあまり深く理解ができていない分野だと感じている。本書はこのあたりについても他の文献よりは細かく記載されているので参考になる。



 ザリーンはウェーバーを、英雄的な孤立した一人の戦士として描いている。彼は容赦なく自分をすりへらし、学問のために自分の生命をも犠牲に捧げる。こういう肖像は誇張かもしれないが、ヴィルヘルム二世治下のドイツに広まっていた大学者を英雄視する風潮に見合ったものだ。……(中略)……。
 フリッツ・スターンは、しかし、ルドルフ・フィルヒョー、ローベルト・コッホ、パウル・エールリッヒのような偉大な自然科学者たちへの賛辞が、もう一つ別の特徴を持つことを強調している。それはすなわち「戦士」というメタファーである。闘争心、自分の生命をものともしない英雄的投入、たとえば、生命を脅かす優勢な流行病や悪疫との一騎打ちに打って出て、公共の福祉を守ろうとする勇気、そういう言い方があからさまに強調される。学問上の諸発見は部隊長の輝かしい戦果に当たるわけだ。学問的な独創性を記述するのに、軍事的メタファーを偏愛するこういう態度は、さまざまな帰納推理の余地を許す。それはヴィルヘルムのドイツ帝国における一般的な戦争気分を反映するものとも言えよう。また学問上の成果が国の勝利として記帳され、学問的功名心が国家間の権力闘争への貢献として取り込まれる状況を示すものとも言えよう。しかしそれはまた、この国における学問運営の構造と、それについての批判点とを示す状況証拠でもありうる。英雄的な先駆者やパイオニアは、定説や学派専門分野などの束縛から独立していなければならない。――そして学問的な新天地を開拓するためには、日々のアカデミックな義務の重荷から、解放されていなければならない。自由な空間という余地が必要なのだ。権威主義的に組織されたアカデミックな大学の体制は、しかしこういう自由な空間を、めったに彼らに与えはしないだろう。そういう理由からも、独創的な学者の孤立と単独行が強調されるのである。(p.195-198)


世紀転換期頃のドイツにおける学者を英雄視する風潮とその社会背景には興味を惹かれる。現在の日本では学者にはあまり権威がないが、政治家を英雄視しようとしており、英雄を求めようとする風潮と「戦争気分」との親和性の高さが気になるところではある。



1909年に、新設されたハイデルベルク科学アカデミーの会員に補選されそうになった時、とりあえず彼は断わる。(p.198)


年譜を補完する資料。



 この「ドイツ社会学会」の創立にあたって、ウェーバーは決定的な役割を果たしていたのだが、これは大学の外部に価値から自由な社会学の組織を作って、それを活用しようという、規模雄大なプロジェクトを実現しようとする彼の戦略の別の例だった。まずそのための方法論的基礎を固めた後で、彼は『社会科学および社会政策雑誌(アルヒーフ)』の共同編集責任者として、<自分自身のための>発表機関を開設し、さらに『社会経済学綱要』シリーズの計画と組織化をはかる。(p.199)


このあたりも意外と細かいことはわからないところかもしれない。学問的な業績だけでなく、その背後での活動の状況にまで目配りしながら一人の人間の活動として捉えてみる視点も必要と思われる。



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