アヴェスターにはこう書いている?
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マックス・ウェーバー 『国民国家と経済政策』

この調査から、自治体の住民の民族別を直接には知ることはできませんが、近似値的な確かさで満足するのなら、間接的にそれを推しはかることができます。間接的にというのは、宗派という媒介項によってということであって、われわれがいま考察を加えている両民族の混在地帯においては、宗派別が民族別と一致しているのです。(p.11)


データを分析する際に宗派を利用して社会層を抽出するというやり方は「倫理」論文を含む「世界宗教の経済倫理」などでも用いられている手法に通じるものであると思われる。



経済政策や社会政策の領域で現在おこなわれるすべての努力を考えてみると、そこから生まれる成果のうちで、そのほとんど全部といってよいほどのものは、いま生きている人間の手には入らないで、未来の世代のために役立つものなのです。われわれの事業に意味を失わせたくないのなら、その事業を未来のため、すなわちわれわれの子孫のための配慮としておこなうほかありません。(p.30-31)


最近(2012年末)の政権交代で自民党(安倍政権)がやっている政策は、この点に逆行するものであろう。目先の利益と見かけ上の景気の上昇(株価と円安)のために、将来に禍根を残すものと思われるからである。(ほとんどの評論家やメディアの解説等は、見かけ上の上昇であってもないよりは好ましいものと考え、それを崩さないようにと配慮しながら意見を述べているが、もっと真っ向から批判する人々が現れる必要がある。それこそメディアの責任であり有権者の責任ではないかと思う。



 これまで経済学においては、財貨の生産にかかわる技術的な問題と、財貨の分配すなわち「社会的正義」の問題とが、価値基準として、かわるがわる前面に押しだされてきました。また、この二つの問題を同じものだと考えるような、素朴な見方もありました。しかしながら、この二つの問題を越えて、つぎのような認識が、しかとは自覚されぬながらも、すべてのものを支配する力をもって、いく度も立ちあらわれました。それはなにかというと、人間に関する科学――経済学がそれです――がなによりもまず問題とするのは経済的・社会的な生活条件によって育てあげられる人間の質、という認識であります。この点で、われわれはある種の幻想に陥らぬように注意しなければなりません。
 経済学は説明し分析する科学としては国際的なものです。しかし、ひとたび価値判断をおこなうとなると、経済学は、われわれが自分自身のうちに見出すような人間性の刻印に、しかと結びつけられているのです。(p.31-32)


この点は、ウェーバーとは違った角度からマイケル・サンデルなどが取り上げている問題でもある。ウェーバーは、「国際的」と「価値判断」を対置していることからも見て取れるように、ナショナルな価値判断、すなわち彼の言う「国策」(ドイツ国民と国民国家との権力的価値関心)に基づいて経済学は価値判断を下すべきという様なスタンスであり、現代のわれわれからするとやや違和感のある主張となっている。ただ、生産力ないし生産性を高めることという課題と財の分配という課題に終始しがちであった経済学(社会科学)が、それとは異なる「人間の質」に関わる問題にコミットし、それを避けるべきではないという点では両者の主張には共通の要素を認めることができる。もっとも、「人間の質」なるものを「定まった国民性」などというような形而上学的な観念として捉えるのではなく、われわれの「善き生」(質の高い生)といった質を考慮していこうとする志向という点においてであるが。



たしかに地上の理想というものは、たとえわれわれにとって至高究極の理想であっても、有為無常のさだめを免れることはできません。しかし、未来のひとびとが、われわれの特質をみて、これこそ自分たちの祖先の特質だと認めるようになること、これは、われわれが望んで叶うことであります。われわれはわれわれの仕事と特質とによって、未来の世代の祖になりたいものです。(p.32)


ここはこの講演の中でも比較的有名なフレーズであろう。

多元的な価値とその歴史的相対性を認める相対主義的姿勢は後に言う「神々の闘争」と共通の見方である。この未来への志向は忘れずにいたい。



われわれがよく知っているとおり、われわれの世代の関心は、まさしく経済学を動かすような諸問題に向かって、思いがけぬほどに昂まってきています。あらゆる分野において、経済学的な考察方法が進出しています。(p.36)


経済学的考察方法があらゆる分野に進出しているというのは、まさにマイケル・サンデルが『それをお金で買いますか 市場主義の限界』によって問題としている状況である。19世紀末のグローバル化の時代と20世紀末以降の再グローバル化の時代とに共通する点として興味深い。



経済的な、あるいは「社会政策的な」理想というものが、なにか自立的なものとして存在するという考えは、まさしく誤りでありますが、それが見誤りだということは、経済学関係の文献を手にとって、評価の「独自の」基礎なるものを見つけだそうとすれば、もちろんすぐにハッキリすることです。それらの文献をみると、われわれが出会うのは、さまざまな価値基準が混沌としている状態であって、そこには、幸福主義的な性質の価値基準もあれば、倫理逓な性質の価値基準もあり、しかも、しばしばその二つが、ハッキリしないままに同じものとみなされている、といったありさまです。価値判断は、いたるところで、天真らんまんな仕方でおこなわれています。――経済的な諸現象の価値判断を断念するとすれば、それは実際、われわれに期待されている仕事そのものを放棄することになることは、申すまでもありません。しかしながら、現状においては、判断を下す当人が、自分の判断の究極にある主観的な核心を、すなわち、自分の観察した過程に対して一定の判断を下す源泉であるところの理想を、他人にも自分にもハッキリさせることが、普通にはおこなわれていないのでありまして、ほとんど例外だといってよいぐらいなのです。こんなふうであるのは、意識的な自己統御が欠けていて、判断のうちにふくまれた矛盾が、著者の意識にのぼっていないからなのです。(p.37-38)


後のwertfreiheitに通じる主張がすでにこの講演で行われている。この講演で物議を醸した国家主義に基づく権力的政治観の表明は、まさにこの方法の実践として行われていることが読み直してみてよく理解できた。いわゆる後期の仕事が始まる前に、ウェーバーがこれまでの歴史学派の仕事を検討していく中で、それへの批判として価値基準の明確化の必要性がウェーバーに自覚されていたということが見てとれた点は収穫であった。



もし、経済のイロハがわかっていたとしたら、ドイツの国旗があちこちの海岸にひるがえることが、ドイツの遠洋通商にとってどのくらい大きな意味をもつかを、かれらは理解したはずであります。
 ……(中略)……。しからば、一体どうして、イギリスやフランスのプロレタリアートの一部は、ドイツのプロレタリアートとはちがった性格をもつようになったのでしょうか。その理由を考えてみると、イギリス労働者階級の組織的な経済闘争が、かれら自身に対して、いちはやく経済的教育を施し終えた、ということだけではありません。主な理由は、やはり政治的な契機です。すなわち、世界的国家という地位の反響がそれであって、世界的国家という地位のために、国家はたえず偉大な権力政策的課題に直面させられ、ひとりひとりの国民が、日ごろから政治的訓練を受けるわけです。ところが、ドイツでは、ひとりひとりの国民が、政治的訓練を受けるなどということは、国境が脅かされたときに突如として起こる現象にすぎません。――われわれの発展の成否もまた、果たしてなんらかの偉大な政策があらわれて、偉大な政治的権力問題の意義を、いま一度、われわれの眼に焼きつけることができるかどうか、という点にかかっています。もしも、ドイツの統一が、ドイツの世界的権力政策の終りであって出発点ではないとするならば、ドイツの統一は、国民が過去の日に犯した若気のあやまちであり、そのために払った犠牲の大きさを考えると、むしろ、なくもがなの仕業であったこと、われわれはこのことをハッキリと知らなければなりません。(p.49-52)


「ドイツの国旗があちこちの海岸にひるがえる」ことを是とし、ドイツの統一は世界的権力政策の出発点であるべきだという判断は、まさに帝国主義・植民地主義の考え方であり、ウェーバーもまたそうした考え方に共感を持っていたことが明らかである。この点については私はウェーバーの考え方には与したくないと考えている。ドイツの統一ということの意義も、対外的な進出という意味だけではなく、諸外国からの干渉の排除、独立性(外部の政権に政治的支配されないこと)の担保という点で有意義であったという評価も可能であり、それは軽視すべきではないとも考える。

ただ、国民の政治的な教育が重要だとする見解には、賛同できる点もある。そして、良くも悪くも植民地を持ったり、対外的な紛争などと関係が深ければ深いほど、そうしたニュースに接することも多く、国際政治的な問題に対する関心も高まりやすいというプロセスは概ね妥当なものがある(報道がある程度の客観性や独立性を持っていれば)。日本の場合、植民地を持ったり他国を侵略した経験があるが、それが50年ほど冷戦という状況下で冷凍保存され、時間が経過してから問題が発生しているため、逆に問題が見えにくくなっているところがあり、こうした問題を客観的に評価するための訓練が求められると思う。



以下、訳者の解説より。

ウェーバーが本書において、政策的提言の背後にある主体の価値基準を明確にせよ、という主張を中心にして「倫理的経済学」の基本的理念に批判を加えていること、そしてそれが本書の一つの中心命題をなしている点に注目するならば、本書は『方法論論集』の冒頭に置かれてよいであろう。この面においては、本書は没価値性理論の出立点であり、『ロッシャーとクニース』にはじまる方法論的論考の礎石をなすといえよう。そして、ウェーバーの没価値性理論が強烈な主体的価値判断の要請と表裏をなしていること、『政治論集』と『方法論論集』との始点が、この同じ『就任講演』であることこそは、まことに意味深いと言わねばならない。さらに、また別の視覚からみると、本書は『東エルベ・ドイツの農業労働者の状態』(1892年)およびそれにつづく一連の農業関係論稿の最後に配することができる。なぜなら、本書の前半部が農業関係論稿を足場として書かれているだけでなく、農業関係論稿のなかには本書に述べられている政策的提言やドイツの状況に対する見解の萌芽とみられる叙述があり、ときには、本書におけるのと同じ語句・表現が見出されるからである。『就任講演』は、その成立過程からみると、農業関係論稿の発展としてとらえられ、『東エルベ農業労働者の状態における発展傾向』(1894年)のつぎに置かれることとなる。このように、本書がウェーバーの諸労作のさまざまの系列にふかいつながりをもち、そのいずれにもっとも重点をおくべきかに迷わされるのは、本書が多面的なウェーバーの労作のなかにあってひとつの結節点をなしているからである。(p.77-78)


同意見である。農業関係の論稿は邦訳も少なく、注目される度合いも低いので、今回の読み直しにあたってはあまりこの点には深く注意を止めなかったが、最初に読んだ時にはこの点に注意が向かっていたのを思い出した。今回はwertfreiheit(「没価値性理論」)との関連が特に目につき、その「強烈な主体的価値判断」の内容に注目して読み直してみた。



ただし、『ローマ農業史』は、ローマ帝政期における大農場経営の労働組織の変化(=発展傾向)の究明を一つの主要論点としており、『東エルベ・ドイツの農業労働者の状態』における研究視覚を準備することになったと考えられる。(p.79)


『ローマ農業史』は読んだことがないのだが、同一の著者の諸著作の問題意識の遷移などを追いながら読むというのは楽しい作業である。こうして一人の思想家の思想像を形成していくことが若いころには有益であると思われる。そのようにして身につけた考え方を――批判的に摂取したものを――足掛かりとして様々な分野に足を延ばすことができるだろう。私にとっては、ウェーバーこそ、そうした思想家であった。

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