アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

マックス・ウェーバー 『職業としての政治 職業としての学問』
日経BPクラシックス版(中山元 訳)の版で読み直してみたのでメモしておく。

政党の支持者たち、とくに政党の職員と「実業家」たちが、自分の支持する指導者が選ばれることで、役職や役得などの個人的な利益を求めようとするのは明らかなことです。ここで決定的に重要なのは、こうした人々が自分の個人的な利益を要求する相手は政党の指導者であって、個々の議員ではない(あるいは少なくとも個々の議員だけではない)ということです。とくに求められるのは、指導者の個性が、民衆政治家(デマゴーグ)的力量を発揮して、党の選挙闘争において票と議席を獲得できることであり、これによって権力を獲得し、支持者たちが望んだ金銭的な代償を獲得できる機会が大きくなることです。(p.80-81)


現代日本でもこうした状況に変わりはない。00年代以降、この傾向は非常に強まっている。

個々の政治家が支持されているのではなく、指導者が支持されているという点に関連して、思い出されることを述べると、日本維新の会のように、リバタリアン的な(新自由主義的な)橋下徹を中心とする大阪維新の会系列の勢力と、国家主義的な観念的極右の石原慎太郎により率いられる旧太陽の党系列の勢力が、政策や考え方が一致していない部分も多々あるにもかかわらず合併し、その結果として政策については何をしはじめるかわからないような政党ができあがっているにもかかわらず、無党派的な層に支持されているのも、橋下徹と石原慎太郎という指導者に対して大衆が持っている「イメージ」が大きな要因となっている。すなわち、彼らがカリスマ的なリーダーだと見なされているからである。こうした勢力と極右的な国家主義的政党となっている自民党が勢力を伸ばしていくと、数年後には後悔する人が増えることになるだろう。

もっとも、その頃には自分たちが自民党や日本維新の会に投票して権力を与えてしまったという後悔をすべきところを、そうした自己批判はせずに自民党や橋下徹または、彼らに敵対したとされる勢力が悪いと責任転嫁するだけのことだろうが。そろそろこの図式からは卒業して欲しいと思う。




国民投票的な指導者が政党を率いるようになると、その支持者たちは「魂を抜かれて」しまって、いわば精神的にプロレタリア化してしまうということです。……(中略)……。これは指導者に率いられた政党の<代価>なのです。
 結局のところ、道は二つしか残されていません。「マシン」を使った指導者のもとでの民主主義か、それとも指導者のいない民主主義かのどちらかなのです。第二の[指導者のいない民主主義の]道は、召命をうけていない「職業的な政治家」、指導者になるためには不可欠な内的なカリスマのない政治家に支配されることを意味します。この道は党内の反対派からは、「派閥」の支配と呼ばれることが多いものです。(p.109-110)


ポピュリストの言いなりになるだけの政治か、それとも派閥的な政治か、どちらかしかないというのは、多くの人にとって不愉快に思われるかもしれない。しかし、前者はデモクラシーの手続きに従ったことだとは言えるけれども、民主主義的な政治であるとは言えないはずである。もし、できるだけ多くの人の意見をとりいれながら政治が運営されるような民主的な政治が良いと考えるならば、派閥的な支配様式を甘受しなければならないだろう。

また、派閥というと悪いイメージが付着させられているが、社会の様々な利益を吸い上げる政治集団であるのは確かであり、また、国会議員が数百人のオーダーで存在する以上、一つの政党であってもその内部がランダムネットワークのように均等に人間関係が形成されるということなど経験的に言ってありうるはずもなく、人間同士のまとまりが複数できるのは当然なのだから、そうした派閥的な集団ができること自体を否定する発想自体が間違っているということを知らなければならない。



 政治家にとって何よりも重要な資質は三つあります――情熱と責任感と判断力です。情熱というのは、仕事にふさわしい情熱をもって、すなわち自分の「仕事」に、仕事を支配している神やデーモンに、情熱をもって献身できるという意味です。……(中略)……。
 それが、どれほど純粋な情熱であっても、たんなる情熱では十分ではないのは明らかなことです。情熱が「仕事」に役立つものとして、仕事への責任という形で、行動の決定的な指針となるのでなければ、政治家にふさわしいものではないのです。そしてそのためには、判断力が必要なのであって、これは政治家に決定的に必要な心的な特性です。この判断力とは、集中力と冷静さをもって現実をそのままうけいれることのできる能力、事物と人間から距離をおくことのできる能力のことです。
 「距離を失うこと」は、それだけでどの政治家にも致命的な欠陥です。……(中略)……。
 そしてあらゆる意味で、<距離への習熟>なしでは、魂を強靭な力で抑えつけることはできないのです。この力こそが情熱的な政治家の特徴であって、たんに「不毛に興奮した」政治的な素人との違いを作りだすものなのです。(p.114-116)


『職業としての政治』の中でもかなり有名な箇所。

情熱だけがあるような場合、彼は信条倫理的に行為しているのであって、責任倫理においては、判断力によって距離をとった上で客観的に行為の結果を予測し、そうした予測の上に立って得たい結果を成し遂げようとし、その結果に対しても責任を持つという責任倫理的な姿勢がなければならないというのがウェーバーの立場だろう。このように情熱、責任感、判断力の三つの資質は彼の信条倫理と責任倫理との対比を構成する要素として語られている点に注意が必要であり、これら三つの要素の中でも判断力という「距離をとる」能力をウェーバーは強調していることには留意が必要だろう。われわれが有権者として政治家の行為の道徳性や妥当性を判断する際にも、同様の基準で政治家に対して評価を下すことができることを考えれば、こうした基準は政治家以外の人間であっても持っていることが望ましいと思われる。

なお、こうした価値自由的な「距離への習熟」は相応の訓練を経なければ身につかないようなものであり、何もせずに身についているような態度とは異なったものであると言えよう。その点で、やはり一種の達人倫理に近いものであるということも同時に理解しておくことが望ましいと思われる。



 国民は、[敗戦によって自分たちの]利益が損ねれられることはうけいれるものですが、名誉が傷つけられることは、とくに[戦勝国が]権利があるかのようにもったいぶった言葉を語ることは、決してうけいれないものです。戦争が終わった時点で、[戦争の責任という問題は]少なくとも倫理的には葬られるべきであるにもかかわらず、数十年後に[敗戦の時に書かれた]文書が暴かれるごとに、人々の悲嘆と憎悪と憤怒が新たにされるのです。戦争の責任という問題が倫理的に葬られるためには、事実に即した姿勢と騎士道の精神が必要ですし、何よりも品位が必要なのです。それはいわゆる「倫理」によっては不可能なのであって、そこで「倫理」と呼ばれるものは実は双方の品位の欠如を示すにすぎないのです。
 政治家に必要なのは、この[倫理]問題にこだわることではなく、将来と将来への[みずからの]責任について考えることです。倫理問題は、過去における罪という不毛な問題にこだわりますが、これは政治的には解決することのできない性質のものなのです。政治的な罪というものがあるとすれば、それはこのような[過去における罪にこだわる]ことです。そして[過去における罪にこだわるならば]物質的な利害のために全体の問題が歪められるのは避けられないことだということも、見逃されてしまいます。戦勝国は罪を認めることで何らかの利益をみいだそうと希望するからです。卑しさ」があるとすれば、これこそが卑しさです。「自分の正当性を誇示する者」が「倫理」を手段として利用した場合には、このような結果になるものなのです。(p.123-124)


これは1910年代のドイツでの発言だが、確かに、戦争の責任の問題は、政治的に解決することができないとすれば、それにこだわることは政治的な罪であるというのは妥当な面を持っていると思われる。政治的な正義と倫理的な道義とは異なるのだとすれば、戦争責任や戦時中の犯罪があったとした場合、道義的には謝罪することが正しくても政治的には不正なことであるかもしれない

戦争の責任や戦時中の犯罪行為とされることなどは、被害者であると意識している側が良い意味で忘れたり、受け入れたりしない限り、加害者とされる側がどのように誤っても終わることはない。(このことは第二次大戦に関して中国が日本の南京大虐殺などに対してとっている態度と、日本がアメリカの原爆投下に対してとっている態度との違いを考えれは容易に了解できるだろう。)被害者側が加害者側から経済的あるいは軍事的な利益を引き出すために利用されるだけの結果になりかねない。この意味ではウェーバーの主張は概ね正しいように思われる。

犯罪があったという事実すら認めない態度やそれを悪くなかったかのように言う態度は論外だが、そうした事実があったことを双方で認めた上で、それについては事後的に政治の問題として倫理の仮面を被せて要求をしないという姿勢が重要であると思われる。現代日本においては、すでにそうした要求がなされているということに一つの問題があり、それにどう対処するべきかということはなかなか難しい問題を含んでいる。ウェーバーが言うように、政治の問題として過去の道徳的な罪を問うこと自体が政治的な罪であることを明確に示した上で、道義的な問題と政治的な問題とを切り分けて政治的には解決したという形式を条約等でとりながら、基本的には倫理問題は政治的には棚上げして先送りしながら、経済や文化などの面で「互恵関係」を深めていくという消極的な方法が安全な道なのかもしれない。



政治という仕事は、情熱と判断力の両方を使いながら、堅い板に力をこめて、ゆっくりと穴を開けていくような仕事です。世界のうちで不可能と思われることに取り組むことがなければ、いま可能と思われることも実現できないことはたしかですし、歴史が示す経験からも、それは確かなことです。しかしこれをなしうるのは、指導者でなければならないのであり、たんに指導者であるだけではなく、素朴な意味で英雄でなければならないのです。そして指導者でも英雄でもない人は、すべての希望が挫折しても耐えることのできる心の強靭さを、今すぐにそなえなければなりません。それでなければ、今可能であることさえ、実現できないでしょう。
 現実のうちで貢献しようとしているものと比較して、世界がどれほどに愚かで卑俗にみえたとしてもくじけることのない人、どんな事態に陥っても、「それでもわたりはやる」と断言できる人、そのような人だけが政治への「召命(ベルーフ)」[天職]をそなえているのです。(p.159-157)


政治は、情熱と判断力の両方を使いながら、堅い板に力をこめてゆっくりと穴をあけていくような仕事だという点はまさにそのとおりであると思う。それは自分とは意見の異なる人々の集団と討議し、意見や利害を調整するものだからである。

ウェーバーは英雄としての指導者を求めているが、私がこの部分を読んで想起したのは、湯浅誠の『ヒーローを待っていても世界は変わらない』の主張であった。彼も政治は堅い板にゆっくりと穴を穿っていく仕事であるという趣旨のことは言っているが、指導者によって突破するようなものではなく、地道に意見調整をしていくことの重要性を説いている。むしろ、民主主義とはそういうものであって、ウェーバーの言うような類の「強いリーダー」に依存していては、リーダーとその取り巻きの好きなように世の中を変えられてしまうだけになってしまうのではないか。

ちなみに、その際、ウェーバーのような責任をとりただしたところで、権力を握ってしまったリーダーがそうした個人的利害や趣味判断を犠牲にするだけの力を持つことはできまい。ウェーバーの言う「判断力」のような「距離をとる」力を身につけていれば、確かにある程度の歯止めにはなるだろう。しかし、そうした達人倫理的であり、相応の訓練を積んだ者にしか到達できないようなもの(判断力)を持ちながら、かつカリスマをも持ち合わせ、さらに皆にとって最も良い結果をもたらすような政策だけを遂行する、などという細すぎる隘路を歩くことを期待するとすれば、それこそナイーブというものだろう。

だから、ウェーバーが言うような強い意志や情熱を持つ人が政治への天職を持つのだというのはそうかもしれないが、狭い意味の政治家だけでなく、社会運動家や官僚など政治にかかわる様々な分野に政治への召命を受けた人びとが散在する必要があるのではないか。その際の政治家の資質をウェーバーを敷衍して言えば、自らの政治的な理想に対する情熱だけでなく、それについての利害対立を調整することに対しても同じだけの強い情熱を持つ人が望ましいのであり、そのためにも客観的な議論ができるためにも距離をとる能力である判断力が必要なのであり、その上で利害調整の結果決まった多くは中途半端な結論であっても、それに対して責任を放棄しないような人物が求められるのではなかろうか。そして、それは一人の政治家に求められるわけではなく、政治にかかわる多くの人に求められるものではあるが、一人がすべてを備えきっている必要は必ずしもなく、たとえ一人ひとりには欠けたところがあってもそれぞれの主張をする人々が組織的な運動を続けることによって、個人の欠点が可能な限り補われ、全体としてこうした美徳が発揮されるようなシステムが作動しているのが望ましい政治の状態なのではないかと思う。


スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/862-e3d6487f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)