アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

鈴木章俊 『ヴェーバー的方法の未来』(その2)

 われわれの推論では、権力政治家ヴェーバーも議会主義者ヴェーバーもともに真面目なものである。したがって、どちらか一方が他方の手段であったという解釈は、公平な解釈とは思えない。「アンビヴァレンス」という解釈は、両者が同時併存しているという事実の指摘を越えるものではなく、両者の相互連関にかんしては何も述べていない。二人のヴェーバーは、同次元において統一的に理解されなければならない。そのためには、ヴェーバーにおける権力政治家という「体質」と議会主義者という「傾向」とをいったん分けることが必要である。そのあと二者を統一する。いいかえれば、ヴェーバー思想を面積(体質)と接線(傾向)において解釈する。体質だけを問題とし、傾向を無視したり(、モムゼン)、傾向だけを問題とし、体質を無視したり(アブラモフスキー)してはならないと、われわれは主張する。
 ヴェーバー政治思想を接線の方向性(傾向)からみれば、病気をさかいにして、彼は明らかに右から左に、汎ドイツ主義から民主主義者に転向している。ヴェーバーは国民自由党の代議士であった父ヴェーバーよりもさらに右からキャリアをはじめ、病気まえには、公然と汎ドイツ主義を語る(『国民国家と経済政策』)。接線の角度は鈍化しているが、病気までは上昇的である。病気以後、彼ははじめて民主主義と真剣にとりくむのであり、かたむきもはじめて下降しはじめ、彼の政治思想はリベラルな傾向をもちはじめる。それはロシア革命論での官権国家批判によって開始され、第二帝制の似而非議会主義批判によって発展してゆく。だが、面積の総和(体質)としてみると、その体質はつねに保守領域にあり、権力政治家であることを放棄してはいない。傾きは、第一次大戦の勃発時には一時的ながら上昇傾向をしめすが(開戦時の発言などを想起せよ)、敗色濃厚になると今度はただちに下降する。そして、1920年に突然の死をむかえるのだが、体質の総和としては、彼はついにリベラル領域に足を踏み入れることはなかった。だが、方向だけは病気以後総じて、また真剣にそこへと定められていたといえよう(図-Ⅲを参照せよ)。
 彼は最後まで、自然的な民主主義者にはなれなかった。しかし、なろうとしていたと推察できる。つまり、ヴェーバー政治論とは、ドイツ帝国の国士として教育された人間が、民主化の道程を歩んできた軌跡であり、民主主義へのヴェーバーの心の旅路である。(p.235-237)


ウェーバーの政治思想を保守-リベラルという枠組のなかでどのように位置づけるかと考えた時、妥当な解釈であると思われる。これを手引きとしてウェーバーの政治思想を読み直してみたいと思う。

私の関心としてはコミュニタリアニズムとの関連も視野に入れながら、改めてウェーバーを位置づけなおしてみたいと考えている。



 正義は、道義とは異なり、強制力をともなう徳目である。それは異論の余地なきものでなければならない。たとえば、それは思想にかんするものであってはならない。それは、財産や生命の保護・保安にかんするものに限定されなければならない。それ以外のものに国家が、特定の正義感から干渉してはならない。正義とは、教導ではない。正義とは、防衛である。(p.238)


アダム・スミスの正義観について述べている箇所。正義とは教導ではなく防衛的なものであるという考え方は、基本的な人権の保障と正義をほぼ重なるものにする。リベラリズムに適合的な考え方であり、不当な要素を排除することには成功していると思う。しかし、コミュニタリアニズム的な観点から見ると、やや狭すぎると評価できるようにも思う。このあたりはまだ展開して考えるだけの蓄積がないため、もう少し考えてみたい。



刑罰の是認や軽重は、ホッブズ以来、公益という観点から基礎づけられる。しかし、スミスはこれを斥ける。なぜなら、公共の利益という論拠を認めることによって、その大義にもとづいて、時の権力が自由に、事物の自然に反した法をつくり出せるようになるからである。法が公益をつくり出せるという法思想は、法の自信過剰に転化し、その行く先は法万能主義、重罰主義であり、重国家主義である。(p.239)


ここもアダム・スミスの法思想に関する論述であるが、スミスが批判する公益によって刑罰の是認や軽重を決めるという発想や、その発想の延長にある法万能主義などは、現代日本で見てみると、自民党や日本維新の会などの極右政党の法律観とほぼ重なる。彼らが「憲法改正」を掲げている点も、法万能主義という偏った考え方が背景にある、これらは繋がり合っているという点は本書の指摘とも重なるところがあるだろう。彼



 スミスはこうして、法を、したがって統治の根拠を、万人の同館に基礎づけた。彼は絶対的正義や統治の効用理論の陥穽にはまることをまぬがれ、民主主義を自由主義に基礎づけえたのである。ヴェーバーに完全に欠如していたものは、この社会的同感の論理である。したがって、彼は民主主義を効用に基礎づけ、それを体現するものとしての指導者を必要とすることになり、その民主主義は指導者民主主義とならざるをえなかった。
 ……(中略)……。
 スミスとヴェーバーの政治思想を対比してわれわれが得た結論は、両者がともに自由主義および民主主義を追求したにもかかわらず、ヴェーバーはその人間観、方法観にもとづいて、それを極限形態で実現しようと試みたのにたいし、スミスはその人間観、方法観にもとづいて、それを、公平な社会的同感点において求心的に実現しようと試みたということである。この原因の一つは、両者の概念観のちがいにあった。ヴェーバーは自由主義を「理念型」として追求した。それは純粋であり、矛盾のないよう組み立てられてはいたが、どこにも存在しない「ユートピア」であった。また、彼の民主主義論はたしかに首尾一貫していたが、その特異な人間観ゆえ、人びとの自然的同感、支持から基礎づけうるものとは、はるかにかけ離れたものとなった。それは、ドイツの新興エリート層が強国ドイツを実現するための道具であった。それは、エリートが運営する指導者民主主義であった。いったん投票した指導者に、ホッブズが主張するように、運命まで預けることが、果たして民主主義といえるだろうか。指導者は国民意識の、その時点における納得点の代行人であり、雇われの身ではないのか。ヴェーバー政治思想によれば、そうではなかった。指導者とは、大衆に抗して自国の存在性を死守すべき責任あるカリスマであった。こうして、ヴェーバーの民主主義論は、その完成度の高さにもかかわらず、ドイツの拡大主義を阻止する政治思想とはなりえなかった。
 スミスの自由主義は、どこにも存在しないユートピアではなかった。それは、人間という種のなかに基盤をもつ自然から発生する。それは、力づくで実現すべきものではなく、ひとが無理な論理展開をやめ、平均的程度まで自己を抑制できるならば、そこへと収斂してゆく求心点であった。(p.240-242)


ウェーバーの指導者民主主義に対する興味深い批判。私は著者の意見に完全に同意するわけではないが、この指摘、特にウェーバーの人間観や方法論や理念型論に見られる貴族主義的な性格が政治論にも反映しているということを足掛かりの一つとしてウェーバーの政治論を再検討してみたいと思う。

また、選挙で選ばれた政治家に白紙委任のようにすべてを委ねるのは民主主義ではないという指摘も重要である。この点に関連して想起されるのが、またもや橋下徹である。彼の発言からは選挙で選ばれた者は、その者の考え方に従って何でもしてよいかのように勘違いしている節があるように思われるからである。(実際そうした「白紙委任されている」かのような発言がかつてあったはずである。)

ちなみに、ウェーバーの政治思想を検討しながら橋下徹の言動を見てみると、彼が権力を非常に愛好しているということが見えてくる。石原慎太郎と手を組んだことも、政策より権力取得、権力行使ということを重視する彼の基本的な発想が大きく作用していると考えるべきだろう。


スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/860-9e2e6182
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)