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アヴェスターにはこう書いている?
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中野麻美 『労働ダンピング――雇用の多様化の果てに』(その1)

 ホワイトカラーの職場では、「業績さえ挙げればあとはどういう働き方をしようと各人の能力次第」という考え方も強くなっている。だが、個人の力で働き方をコントロールできるほど現実は甘くない。なぜなら、仕事とは社内の働き手や取引先の人たちと連携し合って進めるものだし、市場の動きも止められないからである。それに、会社のリストラで社員が削減されて、その穴埋めもしなければならず、一人あたりの業務量は急増している。したがって、いくら社内で権限があっても労働時間をコントロールすることなどできるわけもない。(p.26、強調は引用者)



最近、「ホワイトカラーエグゼンプション」なる制度を導入するかどうか、国会に法案を提出するかどうかという話題がメディアでささやかれている。ここで引用した文は、この制度についての言及ではないが、同じことが当てはまる。制度を導入したい側は理屈として「仕事を自分でコントロールできる職務の人」に導入すると言う。

しかし、実際にはそのような人はほとんどいない。少なくとも多くはない。そして、一度導入されてしまえば、あとは最初につけた「屁理屈」など忘れ去られてしまい、どんどん基準が引き下げられて制度の適用範囲が拡大されていくだろう

年収の要件についても同じである。初めは700万円とか900万円とかが基準とささやかれているが、仮に最初にその金額で導入しても、数年経てば現実にもっと低い収入で適用される例が増え、「現状に合わせる」形で引き下げられていくだろう。そして、適用される人が過半を占めるようになったとき、「適用されていない人は不当に保護されている」ということにされて、さらに適用範囲が拡大されるに違いない。

これは、残業代をゼロにすることによって企業を潤わせ、労働者は残業代を奪われた上に、奴隷のようにこき使われながら、過労死へと追いやられることになるような制度である。




企業内で組織された労働組合は、長期的視野にたって組合員の雇用や労働条件を守ることを考えるから、企業間競争からの生き残りを強く意識し、時に労働条件の変更や雇用削減にさえ柔軟に対応してきた。各企業は、そうした条件のもとで、コスト削減による生き残り策として、雇用の多様化・流動化、すなわち非正規化を促進しながら正規雇用については個々の働き手の業績や能力によって賃金などの待遇を決定するという労働条件の個別化を推し進めることができた。それは、人件費を部門ごと、個人ごとの業績査定に即して配分するシステムであり、個別具体的な配分決定を企業の専権事項として労働組合の関与を排除することを可能とする。(p.35-36、強調は引用者)



非正規雇用の増大と成果主義の採用によって、労働組合は十分に機能が果たせなくなり、使用者(企業)側の一方的な決定で、労働者の処遇を決めることができるようになってきたということ。

これはある意味で、200年前への逆戻りであるとも言える。労働者は使用者と一対一で対峙しなければいけない方向に社会が動いてしまっている。

これを企業から見たとき、労働者の労働は、企業が購入する「商品」になってしまっている。企業からすれば、気に入らなければ買わないことができ、代わりは幾らでもいる。これに対して労働者の側にしてみれば、雇用されるか解雇されるかは文字通り死活問題ないし人生における重大な問題である。この非対称性が「効率化」「合理化」などが叫ばれ、「リストラ」という脅しが言われ、また実施されることによって、見えなくされてきたのが、ここ10年ほどの労働のあり方だったと言える。

政策は変えるべきだし、労働組合はまず非正規雇用をも包括する組織にならねばならず、その上で非正規の正規化を進め、成果主義的な発想に基づく「個別化」に抵抗すべきだろう。




 二つ目の問題は、割増賃金の意義にある。割増賃金制度は、「一日八時間は収入のために、次の八時間は休息のために、残りの八時間は自分自身のために」という生活の自由と自己決定権を侵害して働かせた使用者に対する経済的制裁としての性質を有するのと同時に、割増賃金を支払うより人を雇う方が経済上合理的だということで残業をセーブする方向に誘導するものでもあって、労働時間規制の生命線ともいえる。割増賃金制度と、人間の生活にフィットした労働時間の上限規制(裏を返せば非労働時間の確保)を組み合わせて機能させることが必要だ。(p.118、強調は引用者)



全くその通り。




持続可能な社会を展望するときには、たとえば人々の就業を継続するために必要な公共サービスは、貧富の格差を超えて誰に対しても良質なレベルで提供されることが必要である。それが、人々に仕事と所得を得るための機会を均等に保証し、人間の持つ潜在的可能性を現実の力に変えることにつながるはずだ。こうした分野に財政の重点的投入が行われなければならない。(p.177、強調は引用者)



ここで「人々の就業を継続するために必要な公共サービス」とは、介護や保育などのサービスのことである。つまり、低額か無料でこうしたサービスを貧富の差に関わりなく、誰もが利用できないということは、貧しい人たちほど仕事に就くチャンスが少なくなることに繋がり、その結果、貧しさからいつまでも抜け出せない(抜け出しにくい)、ということになる。

政策を論じる場合、何かというと財政赤字が持ち出され、それを「解消」することが必要だと言われ、そのために増税はしたくないとされ、結局、歳出の削減しかない(それが先だ)と言われる。

しかし、そうやって歳出を削減していくことは、単なる所得再配分がなされないことにって貧しい者はそこから抜け出しにくくなるという面だけでなく、間接的にも生活水準の低下に繋がっていく。いつの間にか歳出削減のほぼ同義語として使われるようになってしまった、行政改革や「構造改革」を言う人には、この問題は永遠に解けないように私には思われる。

私は有権者が選挙をした代表が決めた(goサインを出した)政策が実施されて、90年代に公共事業のハコモノが作られて財政赤字が生じたのだから、その責任を取って納税者たる国民が増税に甘んじるべきであると考える。財政政策上も経済政策としても、それで問題くやっていけるはずであり、私の持論はそちらの側面から考えられたものだが、あまりにもルサンチマンに満ちた言説が多いので、ここではあえて道徳論的に返してみた。

したがって、私の見解では、赤字の償還を歳出削減だけで賄う必要はなく、予算をつけるべきところには予算をつければよく、その都度、それに応じた負担をすればよいということになる。
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