アヴェスターにはこう書いている?
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塚田敏信 『ほっかいどうお菓子グラフィティ―』

 江差の町並みは、上下二層の通りに商店や家々がはりつく構造で、海岸線に近い下通りに歴史的建造物が集中し、上通りは建て替えが進む。(p.9)


江差の町の構造を簡潔に表現している。



 道内の菓子屋で話を聞くと、最初は和菓子屋から始まり、やがて洋菓子も扱うようになって、両方手がけるか、途中で洋菓子だけになる例も少なくない。五勝手屋もスタートは和菓子だが、昭和初期にいち早くシュークリームを手がけ、昭和20年代に江差で初めてバタークリームのケーキを作っている。……(中略)……。だが、洋菓子店にはならず、今は作ってもいない。(p.10)


生活習慣の変化が需要の変化をもたらし、それが業態の変化をもたらす。



 2階に上がる吹き抜けの階段の壁面には、これまで菓子作りに使われた膨大な数の木型が飾られているほか、店舗と隣り合う建物にはギャラリーも開設。(p.10)


江差の五勝手屋本舗についての紹介より。次に江差に行くときには、ここも見学してみたい。



 明治の開拓期、道内各地に鉄道が開業すると、旅客の胃袋を目当てに駅弁売りが現れる。当時、駅弁として立売されていた中には、餅や団子、饅頭などの生菓子も少なくなかった。筆者はこれを駅売りの生菓子、略して「駅生(えきなま)」と呼ぶ。その駅生第一号発祥の地が、函館本線の銭函駅である。
 昭和6(1931)年築の木造駅舎は、昭和初期に多用されたギャンブレル(駒形切妻)屋根が風情を感じさせる。駅自体は明治13(1880)年、手宮-札幌間に北海道初の鉄道が開通したのと同時に開業。ほどなく駅ホームで立売されるようになったのが、のちに銭函名物となる「酒まんぢう」だった。これこそが、北海道の駅弁第一号だ。
 では、なぜ銭函駅だったのか。……(中略)……。
 朝、手宮を出た列車は、午前10時過ぎに銭函駅のホームに入り、午後に札幌を出たそれは午後2時過ぎに着く。つまり、どちらに乗ってもちょうど小腹が空く頃合いに銭函へ着くのだ。しかも停車時間は20分もあり、その間、目の前を饅頭売りが行ったり来たりするのだからたまらない。おまけに、当時の乗客は富裕な層が多かったから、銭函駅は商いに格好の地だったのである。(p.11-12)


北海道の明治期のお菓子は鉄道と切っても切れないほど深い縁がある。本書を読むと、駅があるところに菓子があるというような感じだ。たかがお菓子、されどお菓子。お菓子を通して見えてくるものも意外と多いことに気付かされた。

また、銭函駅が現存の小樽駅より古いものとは知らなかった。確かに言われてみれば風情がある佇まいではある。今度、じっくり見てみたい。その時には「酒まんぢう」も試食してみよう。



 JR江別駅前に広がる条丁目地区は、明治末から昭和初期にかけて建てられた趣のある建物が今も残る、味わい深い地区だ。旧岡田倉庫を含むその界隈は、映画「天国の本屋」で重要な舞台として使われたロケ地にもなった。実はここ、かつては饅頭屋だらけの町だったのである。
 野幌屯田兵村と千歳川の間に位置する江別駅前は、早くから石狩川を利用した舟運の拠点として、そして鉄道開通後は交通の要衝として発展した。その江別駅で「松丸まんじゅう店」が「えべつまんじゅう」を売りはじめたのは明治18(1885)年のこと。当時は、薄い布で包んだ箱入り饅頭を、5本入り5銭、10本入り10銭で駅売りしていた。
 江別駅が開業したのはその3年前、札幌-幌内を結ぶ幌内鉄道が全線竣工した際である。野幌への屯田兵の本格的な入植が始まり、石狩川定期航路の拠点が駅近くに置かれたのが、それから2年後のことだった。つまり、交通の要衝である江別の発展とえべつまんじゅうの誕生は、切っても切れない関係にあるわけだ。(p.14)


江別駅前は車で通ったことはあるかも知れないが、きちんと訪れたことがない。ちょっと行ってみたくなった。饅頭と交通の関係も非常に興味深いところ。こうした関係は他のお菓子にも見られるものであり、お菓子を研究対象として歴史を見ていくのも面白い。



 美園アイスクリームの始まりは、大正8(1919)年にさかのぼる。函館からやってきた漆谷勝太郎が、北海道で先駆的にアイスクリームの製造、販売を始めたのである。そのさっぱりした清涼感は、ジェラートに近い。これは、日本のアイスクリームの大半がアメリカ仕込みだったのに対し、美園のそれは脂肪分の配合などがフランス式だったためだ。(p.115)


アイスクリームにもアメリカ式とフランス式があるとは知らなかった。食べ比べてみたい。



 札幌の白石区にある菊水地区には、かつてススキノから移転させられた遊廊があった。そこが今では、菊水中央商店街を中心に人情味のある佇まいになっていて、筆者にとっては心安らぐ場所の一つになっている。ここで昭和33(1958)年からおやき屋を営むのが「おやきの平中」だ。ちなみに、「とうまん」(p132)で知られる冨士屋の本社も、平中のすぐ近くにある。
 菊水地区にはかつて、昭和29年開館の映画館「菊水劇場」(昭和46年閉館)があった。その隣で自動車整備工場を営んでいた平中誉志美さんの家では、物置を利用して映画館利用者をあて込んだ自転車の一時預かりをやっていた。すると周りの人たちから、「映画館にはおやき屋がつきものだから、やってみたら?」と助言されたのをきっかけに、おやき屋を始めたという。(p.159)


「移転された遊廊→映画館がある歓楽街→おやき屋」という関係性が面白い。



 小樽のまちを歩くと、昭和ヒトケタの頃に建てられた個性的な建物によく出合う。建築史的にいうと、アール・デコが流行っていた頃のもので、有機的で生命感あふれる意匠が、時間の経過とともに味わい深く語りかけてくる。菓子屋を巡っているうち、それはお菓子の世界にも当てはまることに気づいた。前から気になっていた菓子屋を訪ねてみると、昭和ヒトケタあたりに創業した店が結構多いのだ。(p.162)


大正から昭和ヒトケタの頃は、小樽の経済が最も成熟していた時期にあたる。そのことが、建物が建てられたことや菓子屋が創業されたことと関係しているのだろう。つまり、経済的に成熟していたため、新しく立派な建築を建てようとする人が多くいたということであり、また、市民がある程度生活に余裕があり、また、交通の要衝としての位置づけも確立していたからこそ多くの菓子屋が創業したのではないかと思われる。



 現在、道内の現役ぱんじゅう店で、昔ながらのスタイルを受け継ぐのは、小樽の「西川ぱんじゅう」と「あんあん」、夕張「小倉屋ぱんじゅう」、札幌の「もいわぱんじゅう」「正福屋ぱんじゅう」の5軒だけになってしまった。(p.233)


お菓子屋は家族経営的な事業体であることが多いため、後継者がいないため閉店となるケースが多い。こうした昔ながらのスタイルを守っている店はしっかりと継承されていってほしい。


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