アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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湯浅誠 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(その2)

 私は、何とか意見を異にする人たちにも聞いて考えてもらいたいとこうやって自分の意見を述べています。可能ならば、橋下さんや橋下さんを支持する人たちとも意見交換していきたいと思います。
 こう言うとすぐに「すりよった」「とりこまれた」と非難する人たちがいますが、コミュニケーションを遮断することや、言いたいことを言い放つだけのことがそんなに立派なことだとは、私には思えません。異なる意見を持つ者同士こそ大いにすりより合い、とりこみ合えばいいのだと思います。
 「すりよった」「とりこまれた」という評価の仕方が好きな人たちは、もしかしたらその人自身が「おれの言うことを聞け」といった一方的なコミュニケーションしか知らないのかもしれません。(p.79-80)


リベラルや左派などにも、こうした一方的コミュニケーションへの傾向がある。それに対する妥当な批判。



 現在、盛り上がりを見せている脱原発デモで、思想家の柄谷行人さんが「デモをやることで社会が変わるのかと聞かれるが、デモをすることで社会は変わる。デモをすることができる社会をつくることができる」と発言しました。
 人々が一人ひとりの「民意」を社会に示すことで、社会は多様な「民意」を示すことができる社会に変わります。それをお互いが調整していくことで、異なる意見の人が調整できる社会に変わっていきます。それは大変大きなことのように、私には思えます。
 そこでは「おれの思う通りにやれ」という願いはかなえられないでしょうが、いまよりも少数者の意見が踏まえられた分、より内容豊かな政策が生まれてきます。政策が全員を巻き込むものである以上、それは全員の利益になるはずです。
 誰に対しても、意見交換や調整を頭から否定すべきではない。地味だけれども、調整して、よりよい社会をつくっていくという粘り強さをもつ人たちが必要です。(p.80-81)


デモをすることで、デモをすることによって多様な意見を示すことができる社会ができる。確かにその通りかもしれない。これまでの日本の社会ではこうした民意の表明の仕方が異様なほどに委縮しており、諸外国と比べても意見を表明する機会に乏しい社会になっていると思われる。確かに、デモをすることでデモをすることができる社会をつくっていくことは必要なことであると思われる。

後段はコミュニケーションによる意見調整の重要性を説く点ではまったく同意見だが、細かい突っ込みを入れるとすれば、意見調整をした結果は、必ずしも内容が豊かな政策になるとは限らず、妥協が重なることによって内容が薄かったり、効果が十分でなかったりする政策にもなりうる、ということは指摘したい。これは本書で湯浅氏自身が言っていたことでもあると思う。また、意見調整をされた政策がもたらす結果は、個人や社会層ごとに見ると必ずしも直接的には利益になるとは限らない。それはただ、トータルで見れば利益になるように意図された政策が立案されるというだけである。結果がどうなるかは決まらないだろう。ただ、このような政策立案がなされるとすれば、それは非常に望ましいことであって、湯浅氏が言うような社会にしていきたいものである。



 問題は、橋下さんという個人ではなく、チョムスキーの言った「土壌」、つまり水戸黄門型ヒーローを探し求める人びとの心理にあると私は考えています。そうだとしたら、それが実際には不可能なものを探し求める「ないものねだり」である以上、「ないもの」を探し求める行為は、必ず裏切られます
 現実には存在しない「青い鳥」を探し続けても、それは見つからない。いまあるもの」への不信感をテコに「次」を探し求めるサイクルそのものを対象化、相対化しないかぎり、橋下さんが失脚したとしても、ネクスト橋下が出てくるだけです。橋下さん自身が、ネクスト小泉であり、ネクスト民主党なわけです。
 しかしそれは単純な繰り返しではない。すでに多くの人が指摘しているように、日本には「待ったなし」の課題が山積しています。にもかかわらず「ないものねだり」の水戸黄門探し、青い鳥探しが続き、こいつがダメ、あいつじゃないか、やっぱりあいつもダメ、そいつじゃないか、やっぱりそいつもダメ、という非生産的なサイクルを繰り返していれば、症状はどんどん深刻化していきます。
 それがさらに人々を焦らせ、苛立たせ、政治不信を深化させていくのだとすれば、現実に起こっているのは単純な繰り返しではなく、どんどん増幅していく悪化のスパイラルだと言わざるを得ないと思います。(p.82-83)


まったく同感である。ちなみに、水戸黄門型ヒーローが現実を裏切る仕方には大きく分けて2つの類型を想定できる。

一つは、権力を握ってからリーダーが利害調整をしなければならないことに気づき(その重さを深く認識し)、人びとが期待する「悪役切り」が進まないため、人びとのフラストレーションが溜まり、ヒーローが見限られる、という場合。カリスマ的指導者は自らのカリスマの証明に失敗して失脚するが、人々は次のヒーローを探し求めることになるだろう。

もう一つの類型は、リーダーが断固としてその独善的な主張を貫き、「悪役切り」を行う場合。この場合、「悪役」は「一人ひとりの必死の生活のニーズ」である以上、社会の中で直接・間接に様々な痛みを負うことになり、後になってから自分が切られたことに気付くことになる。あるいは、切られているにもかかわらず、それがヒーローによるものであることに気付くことができず、別の「既得権益」のせいにされてしまい、さらにその「既得権益」を切ってくれる新たなヒーロー探しが始まる可能性の方が強いかもしれない。

日本では、高等教育を受けた人々でも、社会科学的な素養がない人が多く、社会という複雑な現象を客観的に見る能力を鍛えていないことに一つの問題があるように感じる。(中国の知識人の言説を見るといずれも「国・国家」を相対化できていないのと同様のこと。)社会現象を対象化、相対化して認識および評価していくというのは、それほど容易なことではないため、それをできる人を多く養成することが重要である。



民主主義とは、高尚な理念の問題というよりはむしろ物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、というきわめて即物的なことに比例するのではないか。
 私たちの社会が抱えている問題はそれぞれ複雑で、一つひとつちゃんと考えようとすれば、ものすごく時間がかかります。一番簡単なのは、レッテルを貼ってしまうことです。一度レッテルを貼ってしまえば、もうそれ以上考える必要がない。
 ……(中略)……。
 これは非常に効率的です。ではなぜそんなに効率が優先されるのか。
 みんな忙しいからでしょう。そんなことにいちいち関わっている暇はない、俺は仕事と生活に追われて大変なんだと。新聞記者だって、原稿を三十分で仕上げなければならないという状況に置かれたら、自分で一からちゃんと考えることをやめて、いちばん通りの良い図式に乗せて書いておこう、それなら誰からも文句を言われないだろう、となるのではないでしょうか。それと一緒です。
 レッテルにおさめず、複雑な問題を複雑な問題として考えるにはどうしても時間がかかります。すべての人は一日二十四時間しかもってないので、その中からどれだけ、学んだり、意見交換したり、議論したりするための時間を切り出せるか。
 そして、学んだり、意見交換したり、議論したりするためには、そのための空間が必要です。
邪魔されずに一人で読書できる空間、落ち着いて考えられる空間、友人やいろんな人たちと意見交換し、議論するための空間。
 本当の意味で「民(たみ)が主(あるじ)」の民主主義を深め、自分たちで意見調整し、合意形成し、確かに「決めてもらう」ではなく、自分たちで「決める」のだということを実践していくためには、時間と空間というその二つの問題に向き合う必要がある、と思います。(p.85-87)


意識の問題に還元しないために、私なりに言い換えれば、解決可能な問題として考えるために、時間と空間の問題として捉え直す点は適切だと思う。

私個人としても、数年前と比べて時間も空間も捻出できない生活環境になっているので、実感としてもよくわかる。



 自分が自分の苦しさを乗り越えることと、他者の苦しみを受け容れて癒すこととは、別のことです。
 必要なことは、自分は声を上げられない状態にある、と感じている人の苦しみに寄り添い、その苦しさを共有し、そこから抜け出る道を一緒に探すことでしょう。「こっちに来ればいいじゃないか」ではうまくいかないと思います。そっちに出向いていく必要がある。
 福祉の分野では「アウトリーチ(出向く、訪問)」と言われますが、それは単に物理的に出かけることを指すのではありません。出かけても、家に来て説教されるだけならば、誰も「二度と来てほしくない」と思うだけです。
 出かけていくのは、相手の気持ちに合わせる、ということです。それが合意形成の基本の第一歩ではないかと思います。「こっちに来い」型のアプローチから「そっちに行くよ」型のアプローチ、押しつけるよりは引き出すアプローチ、自分の世界に引き込むよりも、相手の世界に飛び込むアプローチ。
 そうして初めて両者の間に現実に対話の回路ができてくる。
「○○がやればいいんだ」で終わらせてはいけない。(p.116)


「なるほど」と気づかされることが多い。分かっていても現場ではなかなか難しいことかもしれないが、こうした方向のことは難しいがゆえに、意識して習慣化したり組織としてのノウハウを蓄積していく必要があると思われる。



 先に、伝統的な地域コミュニティ(地縁)では、コミュニティはあるものだったと言いました。都市はどうだったでしょうか。
 濃密な地縁関係は、時に息苦しさをもたらします。特に若い人にとってはそうです。だから高度経済成長期、農村から都市部へと人口流入が進むと「地域コミュニティなんて前近代的だ」「都会は匿名の存在でいられるからいいのだ」「マンションの隣の住人の顔を知らなくて何の問題があるのか」と言われました。そこでは、コミュニティはいらないものでした。
 日本においてコミュニティとは、あるものか、いらないものか、基本的にはそのどちらかだったのではないかと思います。「人と人を結びつける」「人と人との関係を結び直す」「一からコミュニティをつくる」というのはどういうことで、そのためには何をすればいいのかというノウハウの蓄積が、日本には乏しい。これは日本の特殊性だと言っていいと思います。(p.140-141)


確かに冷戦期までの日本社会ではコミュニティは「ある」か「いらない」ものだったと性格づけられるかもしれない。鋭い指摘。本書でこれに続いて述べられるように、会社というコミュニティがコミュニティの不在を埋めていたが、90年代以降、ここがコミュニティとしての機能を次第に失ってきたため、コミュニティの需要が高まっているのは確かだろう。



 高度経済成長は、地方から都市への大移動であると同時に、地域コミュニティ(地縁)から会社コミュニティ(社縁)への所属替えと言える側面を持っていたのではないかと思います。(p.142)


なるほどと思わされる。かつてはホワイトカラー化や日本型経営などと呼ばれた現象は、人間の関係という観点からは社縁へのシフトとして捉えることができるわけだ。



 先に被災地の中高年男性の話をしましたが、男性は社縁を中心に、血縁・地縁がそれに連動して動くので、三つの縁を持っている人と、三つの縁を持っていない人、つまり無縁状態の人に二極化しやすいのです。この状態を一挙に進めたのが、高度経済成長だったと思います。(p.143)


なるほど。



「人と人との関係の結びなおし」をするのが、ソーシャルワークです。それは、これまでの文脈から明らかなように、個人的であると同時に社会的で、政治的な技法でもあります。
 ソーシャルワークは、身近な人との関係調整の技法であって、コミュニティづくりといった社会的なテーマ、民主主義といった政治的なテーマとは関係ないものと思われがちですが、それは誤解です。問題はむしろ、そういう誤解が蔓延している点にあります。
 ……(中略)……。
 貧困を過去のものに流すことで、ソーシャルワークの社会性や政治性も一緒に流してしまったわけです。
 そのため、残念ながら日本は本来の意味でのソーシャルワークが弱い。「ソーシャルワーカー」と呼ばれる職員さんはいろんな分野にいますが、その方たちがソーシャルワークをやっているかどうかは別の話です。
 それは、「人と人との関係の結びなおし」のスキルやノウハウの蓄積が少ないことに直結します。(p.146-147)


ソーシャルワークが、政治的なものだとは私も確かに思い至らなかった。確かにソーシャルワークは、ソーシャルワーカーと福祉サービス利用者の間の関係や利用者と社会との結びなおし程度のものとして捉えられてきたように思う。

人と人を結びなおす技法であれば、新たなコミュニティをつくる(もう少し古い社会学風の言い方であれば、アソシエーションとかゲゼルシャフトの結成などと言うとしっくりくるかもしれない)という社会的な側面を持つし、コミュニケーションを通して人と人と結びつけていくことは、単なるコミュニティというだけでなく、政党の結成や政党と支持者との関係の形成にまでも繋がりうるものであり、その場合には高度に政治的な問題にかかわる技法ということになる。言われてみれば、確かにそうかもしれない。ソーシャルワークについては、もう少し自分の中でも掘り下げてみたい問題かもしれない



 しかし、こうした官民の相互不信は、結局誰も幸せにしないのではないかと思います。官僚の人たちは制度・政策のプロ(職人)です。しかし、さまざまな立場の当事者の生活実態やその人たちの気持ちについては、まったくの素人です。他方、私たち現場の人間は、それぞれが携わっている分野での職人ですが、制度設計や政策の整合性を図る技術面ではド素人です。だとしたら、両者が同じテーブルを囲みながら相互の長所を生かし、より良いものを作るために建設的な共同作業を展開したほうが、より多くの人たちにとって幸福な結果をもたらすことができるのではないでしょうか。

 そして私は、そうした両者の溝を少しでも埋めるために、官民の間をもっと頻繁に行き来する人たちが増えるべきではないかと感じています。……(中略)……。もっと、政策決定プロセスを知っている民間人、現場を知っている官僚が増えるべきではないでしょうか。(p.162-163)


同意見である。湯浅氏は行政の現場を垣間見たことによって、官僚に対する考え方が現実の官僚の働きと整合するようになっているように思う。彼のように行政についての知見を得た運動家(や現場を知る官僚)が増えることは確かに社会にとって有益だと思う。

制度としてこうした人的交流を行うとすれば、どのようにすればできるか?参与というアドバイザー職をもっと官僚機構の下の方にまでつけていけばよいのかもしれない。たとえば、局長級や課長級の官僚に対するアドバイザーとして民間での活動経験者を起用する、といったことが考えられるかもしれない。

官僚が現場を知るためには、外の世界に官僚が出ていかなければならないが、仕事に忙殺されている霞が関の官僚にさらに外に出ろと言うのは、現状は無理な話かもしれない。手始めに自治体職員と国家公務員との人的交流くらいから始めるとよいかもしれない。現状では国家公務員が自治体に出向する場合、課長級や部長級以上の肩書で「下りてくる」のかもしれないが、そうではなく、窓口の最前線で市民と接するような業務を何年間かやらせるだけでも、少しは実情がわかるだろう。人事交換として自治体と国家公務員で人を交換して仕事をさせれば霞が関の仕事も人工としては足りる計算になるだろう。



現在のところ、多くの人たちが合致できる最大公約数が「政府に隠れたムダ金があるはずだ」という点にありますから、「まずは政府が身を削れ」という行革路線が強くなり、それを主張する分には、国会議員もマスコミも、あまり批判にさらされず安心、という状態になっています。
 これは税と財政の機能を強めるために税と財政の機能を弱めている状態で、「社会保障は強化するが、官の肥大化には使わない」という言葉で法制化されてもいます。税と財政=(①年金、医療、介護+②その他の社会保障を含むさまざまな政策経費+③公務員等の人件費)のうち、①を維持するために②と③を削る、という結果です。しかし、①と②は公務員が設計・運営しています。ここを減らし続けるということは、公務員の中に専門的な技能を持った人が減り、いわゆる官製ワーキングプアが増え、長い歴史的蓄積と長期の展望に立った設計・運営能力が低下していくことを意味します。本当にそれで世の中がうまく回っていくのか、私は疑問です。
 私は公務員を無批判に擁護しようというのではありません。不満はないのかと言われれば、不満はあります。私が擁護したいのは社会です。社会を擁護したいという視点から現在の状況を見ると、公共サービスを設計・運営するのが公務員という当たり前のことが忘れられて、公務員批判が自己目的化しているような危機感を抱きます。何らかの目的を擁護するための手段にすぎなかった批判が、そもそもの目的を見失って自己目的化するとき、それをバッシングと呼びます。その意味で、現在の状況は「公務員バッシング」だと感じています。そしてそれが擁護すべき社会を強化する行為であるかといえば、私は懐疑的です。私は公務員を盲目的に擁護はしませんが、盲目的な公務員批判には反対です。それは結局、公共サービスを劣化させてしまうからです。(p.177-178)


税財政の問題や公務員批判に関する見解には非常に共感する。このあたりの見解はこのブログにも多々書いてきたが(例えば神野直彦『財政のしくみがわかる本』(その3)のエントリー)、公務員バッシングと行革路線は、政策の執行機関の機能不全を招き、これは社会の利害を調整する機能が劣化を意味するから、社会にとって不利益となる、ということはよく認識するべきだと思う。


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