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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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立岩真也 『ALS 不動の身体と息する機械』(その3)

 さらに、「まずは生きられるという条件を社会は提供し保障すべきである」という立場をとることができる。誰もが臆面もなく生きることもできる社会を無色の中立の社会と言うこともできようが、それもまた特定の社会である。そしてそれ以外のあらゆる社会も特定の社会である。その特定の社会を支持するかそれともしないかである。その意味で中立的であることはない。いずれかの社会をとるとし、基本的には生存を支持することが社会の基本的な立場であるべきだとしよう。その上で、その人の選択を受け入れるということがあるということだ。基本には生存が支持されるという条件があって、選択の自由はその上でのことだと私は考える。(p.369、強調は引用者)



立岩氏の基本的な思想を簡潔にまとめている箇所だと思う。私も基本的にこの立場に賛成である。

自己決定なり選択の自由には、それよりも根底的なところに、それをよしとする条件が必要である。規範の問題でなく現実的にも、自己決定や選択の自由が可能であるためには、それを可能にするだけの条件が必要である。

自己決定至上主義や選択の自由(市場原理主義もこの一類型にすぎない)が誤っているのは、まさにこの点(必要条件)を見落としていることにある。自己決定や自由は二次的に重要であるにすぎない。

次の引用文もこれと深く関連している。

 人は自分のできる範囲で生きていかなければならないというきまりは、基本的によいきまりではない。ただ、誰も何もしないのは困るし、できる人にはできることをほどほどにはやってもらわなければならない。だから、自分のことは自分で、と子どもに教えるというぐらいのことだ。そしてこれは皆が同じだけできて、同じぐらいのものを必要とするのであれば、それぞれ同じぐらいがんばってもらえば、同じだけ受け取れるし、同じだけ受け取るには同じ程度苦労すればよいということになるから、わるいきまりではない。しかし、各々のできる力が違っていて、同じ程度の生活を送るのにも必要なものが違っているなら、よくないきまりである。だから、私はこのきまりを基本的に受け入れる必要がないと言うのだが、それは、人々の力がそう違わないという前提がほぼ通用する限りはこのきまりでやっていてよいとし、そうでない場面ではこのきまりを使わないことにするというのと実質的にそう変わるものではない。(p.408、強調・下線は引用者)



現実の社会は下線部のような条件ではないことが大部分なのだが、しばしば、あたかも現実が下線部のような条件を満たしていると暗黙のうちに仮定しながら「自己決定」や「市場に任せる」ことが称揚される。本来、こうしたことを言うためには、それを適用する場面が、下線部のような条件やその他のさまざまな条件を満たしているということを十分に示さなければならない。しかし、それがなされることはまずない。

本文は、これに直接、次のように続いていく。

 ここまで同意してもらえば次の誤解も解くことができる。
 社会的に提供されるものは公平でなければならないと、薄く広くが公平だと、あなただけを特別扱いできないと、そんなことがきわめて頻繁に言われる。役所の窓口だけでなく、その筋の専門家が集まっているはずの国の審議会でも口にされる。しかしそれはまったく間違っている。ある水準の生活を維持するために必要なものが人によって異なる。その異なりに対応するために、財を集めて分配するのが、政治がなすべき数少ない仕事の一つである。例えば介助のために月に給料取り二人分の金がいる、それは贅沢だと言う人がいる。しかし、まずそうして暮している人は贅沢をしていない。普通の生活をしているだけだ。(p.408-409、強調は引用者)



今の日本で「小さな政府」を是とする人々はこのことを理解していないと私は思う。立岩も次のように言う。

ところが私のように考えない人、なにかというと「資源の有限性」を持ち出す人は、現実に立脚して心配しているはずであるのに、具体的に何が足りないのかと聞いてもきちんと答えてくれないのだ。(p.412、強調は引用者)



全く同感である。むしろ、市場原理主義という言葉が象徴しているように、こうした考え方の人々のほとんどは、個々の現実をしっかり見据えるということせずに、抽象的な原理から発想していると私は見ている。

そして、こうした傾向は、例えば、「財政赤字」を理由に危機を煽ろうとする人や自分はあたかも危機感を持っていて他の人々の危機感が足りないと言うような人によく見られる発想である。しかも、立岩が述べるような対応・対策の面だけでなく、さらに、何が危機なのかもうまく説明できないし(つまり、現状把握ができていない)、何が原因なのかも調べていなかったりする。赤字のどの程度の割合が何に起因するのかということすら調べていなかったりする。

「自力で調べてしまえば」世の中に流通している言説の大半は嘘であるとわかる。日本政府の財政に関して言えば、危機は確かにあるが、一般に思われているものとは様相は異なるし、当然に解決策も一般に信じられているものとは異なるのである。それについては機会があれば私のメインのブログ「ツァラトゥストラはこう言っている?」の方に書くことにしたい。
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