アヴェスターにはこう書いている?
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R.ベンディクス 『マックス・ウェーバー その学問の全体像』

カリスマ的指導は永続的な支配体系の内部にもくりかえしあらわれるが、紛争の時期には、よかれあしかれ、それがとくに要請されるのである。(p.280)


ウェーバーのカリスマについての政治社会学的分析は、昨今の日本における「強いリーダー(シップ)」待望論が蔓延するや政治的な風潮の中では、再度検討してみる価値があるかもしれない。



 家父長制的支配の第二の拡張は、経済の領域でおこなわれる。ウェーバーの見解によると、家産制は多くの相異なる経済構造と両立しうるが、極度に中央集権的な家産制的支配の発展は、しばしば貿易に依存している。(p.313)


比較的長距離の貿易を大規模に行うには、相応の経済力を持つ主体がなければならないが、近代以前の時代には規模の大きな政府が存在する場合、それはウェーバーの用語で言うならば家産官僚制を有する政府になりやすかったということは言えそうである。私見では、こうした支配の形態自体と経済の様態の間には特別に強力な内的親和関係はないように思われる。それ以外の要因(供給先または市場としての取引相手の存在、民衆の家計状況、生産や流通にかかわる技術やインフラの整備の程度、様々な地域で魅力的であると評価される商品の存在など)の方が遥かに大きな意味を持つと考えられるからである。



 法秩序、官僚制、領土内における構成的管轄権、そして正統的な実力行使の独占が、近代国家の本質的特徴である。(p.389)


ウェーバーによる既定の要約。



 ウェーバーは近代国家を定義するばあい、この政治的共同態の「目的」とか、その正当性にたいする信仰を鼓舞している特定の価値判断に焦点をおくやり方を、はっきりとしりぞけた。……(中略)……。ウェーバーは、国家によって追求される目的、国家が依拠する特定の信念を、定義から除外することによって、法理論家としてではなく社会学者として語ったのである。(p.389-390)


こうしたウェーバーの方法は、まさにマイケル・サンデルが批判するリベラリズムのやり方である。ウェーバーの当時には「文化科学」を確立しようとするにあたっては、いったん通過しなければならない道だったかもしれないが、現代においては再度「目的論」に立ち返ることにも十分な理由があるかもしれない。



 近代官僚制の第二の属性は、そこにおける「行政手段の集中」である。ウェーバーはマルクスと同じ用語を用いることによって、この集中過程が、経済においてばかりでなく、じっさい政府、軍隊、政党、大学など、ほとんどすべての大規模組織において生じていることを強調しよとした。(p.398)


同意見である。



支配権は規則にしたがって行使され、その支配権に服する者は、だれもが法的に平等な地位をしめる。
 この平準化傾向とむすびついて教育制度に重要な変化が生ずる。名望家による行政は、ふつう、素人による行政であり、官僚制は、ふつう、専門家による行政である。だれもが行政職につく平等の資格をもつということは、事実上は、学歴上の一定の要件をそなえた者ならだれでも、同等の適格性をもつということである。教育免許状が、行政職への補充の基本的要件として特権にとって変わる。(p.399)


合法的支配が優勢になると教育をめぐる競争が生じることになる。興味深い指摘である。



「政治的権力を掌握する指導者の地位が、大衆の信頼を獲得するという事実によってきまる」ばあいには、かならず独裁への傾向が生ずる。(p.417)


現在、橋本徹・大阪市長や石原慎太郎・前東京都知事または河村たかし・名古屋市長といった「人気」ないし「カリスマ性」がある(とされる)人物たちが、衆議院選挙に向けて様々な策動をしている。こうした人びとの言動を見ていると、まさにここで引用した傾向に警戒しなければならない時期に差し掛かっていると判断しなければなるまい。

「日本維新の会」が掲げる政策を見ても、内閣機能の強化といった独裁権力者にとって恣意的に権力をふるうことができる基盤をつくることや代議士の削減のようなデモクラシーの機能を弱めるような政策さらには憲法改正といった基本的人権の保障を弱める可能性が高い政策ばかりが並んでいることからも、それは明らかだろう。



 彼の判断では、暴民支配(モッブ・ルール)の脅威は、つぎのような条件のもとで最大となる。すなわち、議会が無力で人民の信頼を得ておらず、政党が強固に組織化されず、支配者の自信喪失とブルジョワジーの弱腰とのために恐怖心へのアピールが成功し、そして最後には、大都市において怠け者とコーヒー店にたむろする知識人が労働者階級の組織の欠如に乗じて政治的煽動に従事しうるようになる、というばあいである。(p.418)


暴民支配と訳されているのは、昨今は「衆愚政治」と訳されることが多い語である。ボールド体で強調した箇所は、現在の日本にも傾向として見て取れるものである。



一国民の政治的成熟度は、議会制的統治の、よりはなばなしい側面によってきまるのではなく、その国民が公務運営の仕方にかんする情報をつねにあたえられているかいないかによって、きまるのである。そのばあいにのみ、一般大衆が政府の行政にかんする理解力を発展させ、政府の行政を、かの理解の欠如した態度で見ることを、すなわち、つねに「官僚制」にたいする不毛な罵言に終わる態度で見ることを、やめるのである。(p.424)


まったく同感である。

この基準で見るとき、現在の日本の人びとの政治的成熟は極めて低いと言わざるを得ない。

どのような政策が望ましいかを事実(公務運営の仕方についての情報を含む)に基づいて判断することもないまま、強いリーダーを待望し、そのリーダーにすべてを決めてもらおうとしている。そして、「強いリーダー」たろうとする者は公務員を敵として描くことで人気を取ろうとしているからである。




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