アヴェスターにはこう書いている?
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E.ハワード 『明日の田園都市』

ある魅力的な名称が、開発の魅力的な型を伴ってやってくると、それが急速に名声を獲得する。提供する商品が水準以下のものであると、その商品をもっているものは、それに俗受けするラベルを張るだろう。そしてやがては、代用品に付随する不評判はラベルの名声を減少し、その結果、原商品の名声を下落させる。
 これが<田園都市>に対して起きていることである。(p.42-43)


F.J.オズボーンによる序言より引用。

田園都市という割と名の知れた構想もハワードの理念をしっかり受け継いだものがあまりないとして解説者は嘆いているようだ。

こうしたラベリングとそのある種の「堕落」はしばしば見られることなのでメモしておく。



 人びとをいかにして土地に戻すかというこの問題を解決するためにとるべき第一歩は、これまで大都市における集合を招来した、非常に多くの原因を、注意深く熟考することだということは推測に容易である。事情がそうであるならば、非常に長期の調査が、その第一着手として必要である。しかし幸いなことに、著者にとっても読者にとってもこれは同じだが、このような分析はここでは必要でない。理由を簡単にのべれば、都市に人びとを引き入れる原因は、それが過去に働いたものであれ、いま働いているものにせよ、それはすべて『魅力』として要約されるものである。そしてしたがって、古い『魅力』のもつ力が、創造されるべき新しい『魅力』のもつ力に打ち負かされるように、われわれの都市がいまもっている以上の大きな『魅力』を、人びとに、あるいはその大部分に与えない治療は効果的ではありえないことは明らかである。
 都市は磁石に、人は針にみなされる。そこで、われわれの都市がもっている以上の大きな力の磁石をつくる方法を発見することが、自発的でしかも健康的な仕方で、人口を再配分するために効果があることが了解されるのである。(p.75-76)


問題の原因となる事柄を調査・分析するのではなく、別のさらに強い魅力を作り出すことによって目的を達成するという発想は興味深いところがある。

ただ、すべてを「魅力」という曖昧な言葉に一括してしまうことには問題もあると思われる。まず指摘すべきことは、人がひきつけられるところには魅力があるとするのは、現象に対して後からつけられた解釈にすぎないということである。また、その「魅力」も、もしかするとある種の強制によって人が集まっている場合もありうるが、それを人びとがぜひとも欲しいものがあるので集まっている場合の「魅力」と同様に扱うことが適当ではない場合もありうると思われる、ということも付け加えたい。



 その計画はまた、多くの農民は額に汗してかちえた労働の成果である金貨を、これまでは地主に支払って失っていたが、こんどは、それを自分の空になった財源に繰りいれることができる、地方税地代の制度を採用する。その場合どういう形で自分の利益になるかといえば、貨幣としてではなく、道路・学校・市場などの、さまざまの有益な形で還ってくるのである。この種のものは、農民の仕事を間接的にせよ物質的に援助するものであるが、現状では残念ながら非常にきびしい負担を伴うため、本来の必要性をなかなか理解できないばかりでなく、これら公共施設のあるものを、疑惑と嫌悪の眼で見るものさえ出てくるのである。(p.107)


現代日本における財政に対する不信と似ている。税負担は「さまざまの有益な形で還ってくる」にもかかわらず、「本来の必要性をなかなか理解できないばかりでなく」「疑惑と嫌悪の眼で見るものさえ出て」いるところは共通である。私としては、この無理解をまともな状態に変えていきたいのだが。



「人間はいかにして自己を知るために学ぶことができるか。熟考によってか。否、行動によってである。汝が自己の義務を果たそうと求めるかぎり、汝は自己の内部に何があるか知るであろう、しかし、汝の義務とは何か。時代の要求である。」――ゲーテ(p.211)


自己を知るのは熟考によってではなく行動によってであるというのは正しい。自己の義務を果たそうとするかぎりという留保も、漫然とした生活では分からないという経験とも合致する。その義務について、カントならば定言命法を持ち出すところだろうが、「時代の要求」というのが興味深い。この点は、行う行動が社会ないしコミュニティの中で有益なものでなければならない、と捉え返すことができるように思われる。



これら過密都市はその役目を終えたのである。過密都市は利己主義と強欲をおもな基盤としている社会が、建設することができた最上のものであった。しかしこれら都市は、事の性質からして、つぎにいう社会にはまったく適応しないのである。
 すなわち、自己愛さえも仲間の福祉により大きな関心を払うようにさせる社会においては、われわれの天性のなかに占める社会的側面が大いに認識されることを要求するのである。今日の大都市は、地球が宇宙の中心であると教えた天文学の著述が、われわれの学校で使用されるのが不適当であると同じように、友愛の精神を現わすのには、ほとんど適していないところである。(p.238-239)


「利己主義と強欲をおもな基盤としている社会」はハワードが本書の初版を書いた直後にドイツで盛んに使われ始めるようになった「資本主義」という社会と呼応していると思われる。19世紀末から20世紀前半と20世紀末から21世紀初頭の現在は、いずれも経済のグローバル化が猛威を振るっているという点で共通であり、ハワードの100年前の提言は現在でも傾聴する価値があると思われる。


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