アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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マイケル・サンデル 『それをお金で買いますか 市場主義の限界』

お金で買えるものが増えれば増えるほど、裕福であること(あるいは裕福でないこと)が重要になる。
 ……(中略)……。価値あるものがすべて売買の対象になるとすれば、お金を持っていることが世界におけるあらゆる違いを生みだすことになるのだ。
 これで、この数十年間が貧困家庭や中流家庭にとってとりわけ厳しい時代だった理由がわかる。貧富の差が拡大しただけではない。あらゆるものが商品となってしまったせいで、お金の重要性が増し、不平等の刺すような痛みがいっそうひどくなったのである。(p.19-20)


生活に必要なモノやサービスがより多く市場に取り込まれるほど、中流から貧困世帯にとっては生活が困難になるし、心理的にも経済面に関する不安も高まるということ。



生きていくうえで大切なものに値段をつけると、それが腐敗してしまうおそれがある。市場はものを分配するだけではなく、取引されるものに対する特定の態度を表現し、それを促進するのだ。子供が本を読むたびにお金を払えば、子供はもっと本を読むかもしれない。だがこれでは、読書は心からの満足を味わわせてくれるものではなく、面倒な仕事だと思えと教えていることになる。新入生となる権利を最高入札者に売れば、収益は増えるかもしれないが、大学の威厳と入学の名誉は損なわれる。自国の戦争に外国人の傭兵を雇えば、同胞の命は失わずにすむが、市民であることの意味が貶められる。
 経済学者はよく、市場は自力では動けないし、取引の対象に影響を与えることもないと決めつける。だが、それは間違いだ。市場はその足跡を残す。ときとして、大切にすべき非市場的価値が、市場価値に押しのけられてしまうこともあるのだ。(p.20)


本書で繰り返し主張される「腐敗の異論」。確かに従来のリベラリズムではこの点は見逃されてきたことであり、多くの人びとが市場化に対して感じる反発を説明するためには極めて有益な示唆であると思われる。



ある財〔善〕や社会的慣行を腐敗させるとは、それを侮辱すること、それを評価するのにふさわしい方法よりも低級な方法で扱うことなのだ。(p.53)


高級か低級かという議論は価値判断へのコミットを避けようとする考え方を採用する際には避けてしまいがちなものである。サンデルの思想では「目的論」を採用することによって、様々なものの「相応しさ」や「高級-低級」といった価値判断を「単なる感情的な意見や感覚的な意見」とは異なるやり方で定式化できるところに魅力があると私は思う。

すなわち、ある財=善や社会的慣行の目的を、それらの有様または理念と整合的に説明できるように目的が設定されなければならないとすれば、その目的はanything goesとはならず、ある程度の類型に納まってくるだろうからであり、そうして設定可能な諸目的から手段の適切さは相応の根拠を明示しながら判断することができ、高級か低級かといった価値判断も、目的にとって価値があるかないかという尺度を示すことができるため、過度に恣意的なものに陥る危険が少なくなっているからである。



腐敗だとする非難には、ある機関(この場合は議会)が当然に追求する目的や目標の概念が潜んでいる。(p.54)


なるほど。道徳的判断に主として基づくような判断や非難の多くにこのことは当てはまるのかもしれない。よく考えてみたい問題。



お金には表現効果があった――よい成績をとることを「クール」にしたのだ。これこそ、金額が決定的なものでなかった理由である。金銭的インセンティブを受けられたのは、英語、数学、科学のAPクラスだけだったにもかかわらず、このプログラムのおかげで、歴史や社会といったほかのAPクラスへの出席者も増えた。APインセンティブプログラムが成功を収めたのは、成績を上げるために生徒に賄賂を贈ったからではなく、学業成績と学校文化に対する姿勢を変えたからなのである。(p.83)


インセンティブも目的にかなった使い方をするならば良い場合があるわけだ。目的を意識的に明示し、目的に関する了解を共有ないし共有できるようにすることは重要である。この部分についてはリベラリズム的な思想に親和的なWertfreiheitも活用できると思う。



良好な健康状態とは、適正なコレステロール値や肥満度指数の達成にかかわるだけではない。肉体の健康への正しい姿勢を育んだり、配慮や敬意をもって自分の体を扱ったりすることにもかかわっている。人々にお金を払って薬を飲ませることは、そうした姿勢を育むのにほとんど役に立たないし、それを損ねる可能性すらある。
 というのも、賄賂は人を操るものだからだ。賄賂は説得をないがしろにし、本質的な理由を外部の理由にすり替えてしまう。「あなたは自分自身の健康など気にしないので、禁煙も減量もしないのですね?では、私が750ドル払いますから、そうしてください」(p.88)


金銭的インセンティブの問題点の一つは、こうした内面的な姿勢などを育成することができないところにある。



金銭的インセンティブは一般に、長期的な習慣や行動を変えさせることではなく、特定のイベント――医者の予約や注射など――に参加させることに効果を発揮するようだ。(p.89)


金銭的インセンティブを適切に使いこなすために銘記しておくに値する指摘だと思う。



 何らかの国際機関によって、各国の財力に応じて年間の難民受け入れ人数を割り当てる。つづいて、この受入れ義務を国同士で売買させる。たとえば、日本が年に二万人の難民を割り当てられたものの、それほど難民を受け入れたくないとすれば、ロシアやウガンダにお金を払って受け入れてもらうことができる。標準的な市場の論理にしたがえば、すべての当事者が得をする。ロシアやウガンダは国民所得の新たな財源を手にするし、日本は外部委託によって難民に関する義務を果たす。さらに、これ以外の方法では避難先を見つけられなかったであろう難民が救出されることになる。
 市場のおかげで避難先を見つける難民が増えるとしても、そこには何かいやな感じがつきまとう。だが、正確に言うと反対すべき点は何なのだろうか。それはこんな事実と関係している。市場のせいで、難民とは誰であり、どう扱われるべきかについて、われわれの見方が変わってしまうのだ。市場は当事者――買い手、売り手、さらには自分たちの避難先の値段をやりとりされる人々――に、難民とは危機に陥っている人間というよりも、押しつけられるお荷物、あるいは財源なのだと考えるよう促す。
 難民の市場に侮辱的な作用があることは認めつつも、このシステムがもたらす利益は害を上回ると結論する人もいるだろう。だが、前述の例から明らかなように、市場は単なるメカニズムではない。それはある規範を具体化している。交換される善を評価する一定の方法を前提とし、促進するのである。(p.94-95)


市場は単なるメカニズムではなく、規範に与える影響を持っているということは本書で繰り返し説かれる重要なポイントである。



市場が反映したり促進したりするのは、何らかの規範であり、市場で取引される善を評価する何らかの方法なのだ。したがって、ある善を商品化するかどうかを決める際には、効率性や分配的正義の先にあるものを考えなければならない。また、市場的規範が非市場的規範を締め出すかどうか、締め出すとすれば、それが配慮に値する損失かどうかを問わなければならない。
 私は、環境や、育児や、教育への高潔な姿勢を促すことが、それと対立する考え方につねに優先すべきだと主張しているわけではない。賄賂を贈るのもときには有効だ。場合によっては、正しい振る舞いかもしれない。学業成績の振るわない子供にお金を払って本を読ませることが、読解力の劇的な向上につながるとすれば、試してみようと思うだろう――勉学の楽しみを教えるのは後でも大丈夫だと願いつつ。だが大切なのは、賄賂を贈っているのを忘れないことだ。それは道徳的に妥協した行為であり、より低級な規範(お金をもらうための読書)をより高級な規範(読書欲による読書)の代わりとするものなのである。(p.114-115)


本書で繰り返し主張されることを比較的コンパクトにまとめている箇所と思われる。

賄賂を贈る場合でも、そのことを自覚することが重要だというのはその通りである。熟議民主主義の枠組みであっても、多数の人間が関わる場でこれをしようとすると困難が生じる。市場化を是とする人々が必ずそれなりの数存在するため、賄賂を贈ることを選択した場合には、市場主義者は賄賂でしかない金銭的インセンティブを最善の方法であると吹聴しはじめるであろうからであり、そうした市場主義者たちの単純なメッセージは大衆に浸透する力を持っているからである。個人レベルでは自覚を促すという方法は有用であり、極めて重要ではあるが、社会的なレベルではやや要求の程度が高いことでもある。

このことに対する処方箋のひとつは、教育が重要であるという方向での議論であり、それはそれで正しいのだが、ひどく時間がかかるものであるという問題がある。または、社会の意思決定の方式として、平等主義的な民主主義をモデルとするのではなく、アリストクラティックな社会構造を容認するという解決策もありうるのだが、長期的にはデモクラシーを腐敗させることになりがちであるという問題がある。



 またしても、市場の論理は道徳の論理を抜きには完成しないことがわかる。(p.118)


市場はそれ自体が道徳的な面への効果をもたらすものであり、政治や道徳と切り離して論じることはできない。



市場によって満たされる欲求を市場が批判することはないのである。(p.122)


消費者が「神様」でない理由もここにあると思う。



経済学的思考においてインセンティブの言語が発展したのは、最近のことだ。「インセンティブ」という言葉は、アダム・スミスをはじめとする古典派経済学者の著作には登場しない。実際、20世紀まではその言葉が経済学の論説に現れることはなかったし、1980~90年代までは目立つこともなかった。『オックスフォード英語辞典』(OED)が、経済学の文脈でその言葉が初めて使用された例を発見したのは、1943年のことだった。『リーダーズダイジェスト』にこうあったのだ。「チャールズ・E・ウィルソンは……軍需産業に『奨励金(インセンティブペイ)』を採用するよう――つまり、労働者が生産を増やせば給料も増やすよう――迫っている」。20世紀の後半、市場と市場的思考の支配力が強まるにつれて、「インセンティブ」という言葉の使用例は急増した。グーグル・ブックサーチによると、この言葉の出現頻度は、1940年代から1990年代にかけて400パーセントを超えて増したという。
 経済学をインセンティブの研究と考える場合、市場の範囲が日常生活に拡大するだけではすまない。経済学者が活動家の役を務めることにもなるのだ。1970年代にゲイリー・ベッカーが人間の行動を説明するために導入した「潜在」価格は、安に含まれているものであり、現実のものではなかった。経済学者が想像し、仮定し、推測する隠喩的な価格だった。対照的に、インセンティブは経済学者(あるいは政策立案者)が設計し、つくりだし、世界に押しつける介入策だ。人々に体重を落とさせたり、働かせたり、環境汚染を減らさせたりする手段なのだ。……(中略)……。
 これは、見えざる手としての市場というアダム・スミスのイメージとはかけ離れている。インセンティブが「現代生活の土台」になると、市場は強制する手、操る手として現れる(不妊手術や好成績のためのインセンティブを思い出してほしい)。(p.124-126)


今ではあまりにも一般的になってしまった「インセンティブ」という語が、20世紀後半、特に1980年代以降に流布し始めた言葉だということを意識することはほとんどないだろう。個人的には、この言葉が流布するようになった経緯などを細かく知ることにも興味が引かれるが、後段の指摘はより興味深い。経済学者が活動家の役を務める、というが、日本では竹中平蔵のようにそれ以上に強い権力を持ってしまった例もある。彼らが「インセンティブ」という場合、市場は「強制する手」「操る手」であること、すなわち、彼らの考えを強制するための手段であるということを人々は理解しておく必要がある



利他心、寛容、連帯、市民精神は、使うと減るようなものではない。鍛えることによって発達し、強靭になる筋肉のようなものなのだ。市場主導の社会の欠点の一つは、こうした美徳を衰弱させてしまうことだ。公共生活を再建するために、われわれはもっと精力的に美徳を鍛える必要がある。(p.184)


市場が非市場的な価値を締め出してしまうことは、本書で繰り返し指摘・主張されていることであるが、そうして非市場的な価値が締め出されることは、すなわち美徳を衰弱させていくことになる。確かにその通りのように思われる。市場化が「拝金主義」などと道徳的に揶揄されるとき、その背後にもこうした認識が横たわっていることが多いように思われる。



 われわれは普通、保険とギャンブルはリスクへの異なる対処法だと考えている。保険がリスクを軽減する手段であるのに対し、ギャンブルはリスクを招き寄せるものだ。保険は思慮深さを示すが、ギャンブルは投機である。しかし、二つの活動のあいだの境界線は絶えず揺れ動いてきたのである。(p.203)


この後、歴史に関する叙述が続くが、なかなか興味深い。私は保険もギャンブルもあまり好きではないのだが、その理由がおぼろげながらわかったような気がする。



 学校にはびこる商業化は、二つの面で腐敗を招く。第一に、企業が提供する教材の大半は偏見と歪曲だらけで、内容が浅薄だ。消費者同盟の調査によれば、驚くまでもないが、スポンサー提供の教材の80パーセント近くが、スポンサーの製品や観点に好意的だ。しかし、たとえ企業スポンサーが客観的で非の打ちどころのない品質の教育ツールを提供したとしても、教室の商業広告は有害な存在だ。なぜなら、学校の目的と相容れないからである。広告は、物をほしがり、欲望を満たすよう人を促す。教育は、欲望について批判的に考えたうえで、それを抑えたり強めたりするよう促す。広告の目的が消費者を惹きつけることであるのに対し、公立学校の目的は市民を育成することだ
 ……(中略)……。
 不況、固定資産税の上限設定、予算の削減、入学者数の増加などのあおりを受け、財政難に陥った学校は、マーケターが校門に詰めかければ入れるしかないと感じてしまう。だが、非があるのは学校よりも、むしろわれわれ市民だ。子供たちの教育に必要な公的資金を調達する代わりに、バーガーキングやマウンテンデューに子供たちの時間を売り、心を貸し出すことを選んでいるのである。(p.280-281)


教育の商業化・市場化の有害性についての指摘は明確に理解されていないことが多いため重要。

後段の市民の非を指摘している部分については、日本の財政のことが想起された。財政の目的を顧慮することなく、諸個人の欲望を満たすために税金を安いまま歳出だけは拡大させてきたからである。


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