アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

酒井亨 『台湾人には、ご用心!』

 また、台湾の義捐金で特徴的なことは、単に日本赤十字社に一括して事務的に贈るというだけでなく、対象を具体的にピンポイントで指定しているものが目につくことである。
 たとえば福島原発の鎮火が話題になった際には「東京都消防局」宛てだったりとか、仙台市と姉妹交流がある台南市が仙台市に直接義捐金を届けたりとか、とにかく具体的なのだ。それだけ台湾側が日本の事情に精通していて、よく調べているとも言える。(p.14)


引用文の義捐金とは2011年3月11日の東日本大震災に対する義捐金のことであるが、台湾の人々が日本の事情に精通しているというのは確かにそうである。これに対して、日本の人々の台湾に対する認識はそれほどの水準にはない。もっと台湾の事情を理解している人が増えたほうが良いと思う。



 日本で人気が定着したサッカーだが、台湾ではまだまだ人気はない。日本統治時代から継承された野球と、戦後外省人(日本統治時代や戦後中国大陸から台湾にやってきた人の総称)が持ち込んだバスケットボールの人気が高い。(p.28)


野球の経緯はわかりやすいが、バスケットボールが人気があるのは大陸の影響だったのか。ある社会で受容されるサブカルチャーも政治の影響を受けることがある。このうちでもスポーツは、スポンサーの存在が大きな意味を持つので、政治との関係が比較的直接的な分野かも知れない。



 日本の大衆文化は、常に台湾社会に浸透していた。1990年代には「哈日族」と呼ばれる「日本大好き」な若者が登場して、メディアの注目を集めた。……(中略)……。
 ……(中略)……。しかし当時はあくまでも「見た目」や表面にとらわれていて、日本をより深く知りたいという欲求は低かった。以前、哈日族について研究した筆者も、哈日族については米国型の消費文化の一形態にすぎなかったと指摘をしたことがある。
 しかし時代は変わった。……(中略)……。
 1990年代のドラマが日本大衆文化商品の中心を占めていた時代には、登場人物のファッションをめぐって雑談を交わす程度だったが、オタク向けアニメによって文化商品の内容と構成を穿鑿する方向に転化した。(p.29-30)


90年代と00年代以降では人気のある大衆文化商品の種類もドラマからアニメなどに変化し、日本への関心も深化したという指摘は興味深いものがある。

ただ、日本のドラマの人気が相対的に低くなったことや、それに代わって韓国のドラマの人気が高まったことなどについても言及してほしかった。また、90年代に日本のドラマを見ていた人々と00年代に日本アニメを見ていた人々とは同じではないという点にも注意を払って分析してほしいとも思う。



 そんな台湾では、「日本人みたい」というのはほめ言葉の一種である。特に女性は、これを言われると喜ぶ人が多い。(p.39)


本当だろうか?台湾人の友人たちに聞いてみたい。本書の叙述には随所に大げさな表現があり、そのまま鵜呑みにすることはできないものが多いのは難点である。



 中国が日本と台湾の関係に横槍を入れて、外務省や地方自治体の国際課が直接管轄できないようにしているために、日本と台湾の外交の窓口はまるで国内のような「代表部」機構が担当し、交流の窓口は、ケースバイケースで国交省や観光課、あるいは経産省や商工課が担当している。これも事実上国内と同じ扱いになってしまっている。
 つまり実は中国の圧力こそが、役所の実務処理としては、台湾を日本の国内化させていることになっている。(p.44)


興味深い指摘。



 ただ、ここで勘違いしてはならないのは、台湾人が「好き」で時には一部だと思うまでに傾斜している日本とは、あくまでも平和国家で、ソフトパワーがある経済・文化大国だという点だ。(p.44)


本書の中心的な主張の一つはここにあるかもしれない。この主張は日本の右派の台湾観に対する批判にもなっており、そこにも本書のモチーフのひとつがあると考えられる。



 台湾では社会的地位が高いのは、医者と弁護士だ。医者は勤務医でも良い。これは日本の地方都市と似ている。地方都市と似ているといえば、進学率が高い名門公立高校の同窓会人脈も強い。最近ではIT関連企業や起業も尊敬の対象である。
 要は金があればいいらしい。
 これと通底する話だが、だから台湾では普通の知識人や大学教授は、それほど尊敬されないし、日本ほどエリートが影響力を持っているわけではない。(p.67-68)


こうした問題(ある社会で尊敬される職業やその程度など)は、歴史的な経緯などを調べると面白そうだ。



 なぜなら「高雄」は、もともとは平埔族の部族タオカス族の集落「タアカウ」社が由来であって、ホーロー人が台湾語で「打狗(タアカウ)」と当てたのが始まりだからである。
 それが日本統治時代の1920年に、台湾語で使われていた地名の当て字が「雅ではない」という理由でいっせいに変えられたのだが、このとき「打狗」も、同じ音の日本語の地名で、京都にある高雄を拝借して、「高雄」に改めたのである。(p.149)


台湾の地名の当て字が変えられた経緯については、気になってはいたが書いている本に今まで出会わなかった。1920年頃にもなると台湾の統治もかなり安定してきていた時期だろうから、こうしたことも可能になっていたのだと思われる。



 北京語を台湾人が話す場合は、全体的にやわらかく優しく聞こえる。
 たとえば、中国では人ごみをかき分けるときに「走開(ゾウカイ)(どけ)!」と偉そうに言ったりするが、台湾ではあくまでも「借過(北京語では「チエクオ」、台湾語では「チョークエー」、私を通してください)」と謙遜表現を使う。(p.152)


このあたりは、台湾人の友人も大陸の中国人が話をしているのを聞くと喧嘩をしているのかと思ったり、友人に話しかけてきたときも喧嘩を売っているのかと思ったことがあるなどと言っていたし、実際に話をしていても、台湾の人々の物腰の柔らかさは日本の人々と割と近いと思われる。



 台湾と中国では日本に対する態度がまったく違うのはなぜか。……(中略)……。
④ 現実的な要因……歴史的にみれば日本は台湾の敵なのだが、現実には中国が台湾の敵となっている。蒋介石・蒋経国時代の対共産党政策、および李登輝元総統時代や民進党による独立の主張などがあって、台湾人にとって中国はますます遠い存在となり、最大の敵国となっている。しかし、日本は台湾が災害に見舞われた際の一番の援助国であり、中国の独裁に対して日本が民主主義であることも、日本への好感情に寄与している。(p.198-199)
確かに、中国と対立していることが日本への志向や関心を高めているという側面は否定できないように思われる。



 日本統治時代に教育を受けた台湾の高齢者やすでに亡くなった方の話で共通しているのは、「戦前の日本統治は良かった」のは、いずれも教育・法治などのシステムやインフラといった「文明化」に限定されていて、だれも「神社参拝や天皇崇拝などが良かった」などと言っていない点である。(p.204)


日本の右派による台湾観への適切な批判。



台湾人が日本人を評価できるのは、自分にも厳しいからである。
 そういう意味では、中国のチベット侵略を批判しながら、戦前の日本の侵略を弁護する一部保守派は、「台湾人が評価する日本人」の類型に当てはまらないのではなかろうか。
 一部保守派が台湾人の「親日」の中身を勝手に歪曲して、自分たちの戦前賛美の主張を正当化するためのダシや道具として使っているのは問題である。(p.206)


日本の右派に対する妥当な批判。



 台湾人の「親日」は、「中国や韓国が嫌い」なことの裏返しである。
 かつて日本を拠点に台湾独立を鼓吹していた言語学者の王育徳はこれを「中国人に対する当てこすり」と形容している。
 要するに、日本統治時代にも日本人から差別されたり、人前で怒鳴られたりと、嫌な思いもさせられたが、戦後やってきた中国人=外省人がもっとひどかった。しかし民主化が進むまで外省人批判をするわけにはいかなかったので、代わりに日本が好きだとか日本人を歓待することで外省人を間接的に批判した、というのだ。
 そして民主化が進んだ今では、台湾の若者の間に、別の形での反中感情とその裏返しとしての親日感情が強まっている。これは民主化して総選挙までやって独立国家としての体裁を整えつつある台湾をいまだに「中国の一部」として、その武力併合の野望を捨てず、国際舞台で台湾の封じ込めに躍起になっている中国を見て反感を募らせているのだ。(p.207)


妥当な指摘である。

なお、日本の右派の「親台湾」も中国嫌いの裏返しである。



逆に、日本の官僚全体はきわめて質が高いと思っている。1990年代以降、大手新聞や週刊誌で執拗に繰り広げられてきた「官僚バッシング」は、日本システムの最後の砦である官僚制を弱体化させることで日本を支配しようとたくらむ某超大国の陰謀だとすら考えている。
 とはいえ、日本の官僚機構も、今回の新聞広告問題に見られるように、失調をきたしているのも事実である。
 もっとも、日本の官僚機構がおかしくなったのは、まさに1990年代以降、新自由主義的「規制緩和」が進められ、日本を守ってきた官僚の権限や機能が意図的に奪われてきたことに起因している。そして、新自由主義は単に大企業による金儲け主義を跋扈させ、日本の中間層を解体の危機にさらしただけだった。だとしたら、官僚バッシングとそのうえでの新自由主義の推進こそが間違っていたと言うべきだろう。(p.215-216)


陰謀云々と言う部分は、政策的影響を受けたという程度の意味ならば誤りではないが、表現としては不適切。

日本の官僚が新自由主義的な「改革」によって弱体化したというのは同意見である。この行政の機能不全は今後の日本社会に目に見えにくいが深い傷跡として残り続けるように思われる。まずは弱体化の内容とその具体的な要因を分析することが、再活性化のためには必要であると思う。

スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/843-3f40ad93
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)