アヴェスターにはこう書いている?
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池田健二 『フランス・ロマネスクへの旅』

ロマネスク教会は、そこで採れる石材で、そこに暮らす職人によって建設されたがゆえに、地方ごとに異なる構成、異なる装飾を持つ。また、その建築を指揮し、管理したのが在地の領主や司教、修道院長であったがゆえに、その地方の歴史を如実に映し出すのである。(p.5)


本書を読むだけでもこのことはよくわかる。



 この時代、クリュニー修道会はフランスの各地で衰退した修道院の復興を進めていた。そのための手段が、特定の聖人の遺骨の所有を主張し、聖遺物による奇跡を喧伝してその聖人への崇敬を高め、巡礼を盛んにすることであった。そして有力者に寄進を求め、修道院の財政を立て直して、新教会を建設するのである。聖人崇敬、巡礼、新教会の建設、そしてロマネスク芸術による装飾。クリュニーによる修道院の改革と再建のなかでこの聖なるシステムが成立し、ロマネスクの文明が形成されてゆく。(p.14)


「この時代」とは11世紀初頭頃である。

本書を読んでいくと、ほとんどの教会堂、修道院がそれ以前の衰退から11~12世紀という同じ時代に再建され、その際に殆ど必ず何らかの聖遺物の所有を主張していることがわかる。その背景にはクリュニー修道会の方針も関係していたということが分かったのは有益であった。次は世俗権力とクリュニー修道会との関係を理解したい



フランスのロマネスク彫刻、とくにタンパン彫刻の最盛期は1120年代から30年代にかけてである。(p.17)


このように盛期が短い理由は何なのか?興味が引かれる。



 ちょうどこのころ、ガリシアの聖地サンティヤゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼が盛んになりはじめていた。ガリシアで聖ヤコブの遺骨発見の伝説が生まれたのは9世紀前半だが、この聖地への巡礼が活発化するのはヨーロッパに平和と安定が回復した11世紀になってからである。(p.61)


イスラーム勢力によるエルサレム占領(十字軍)やレコンキスタの進展という国際政治的な背景がここにはあるだろう。

思うにヨーロッパが平和に安定化したというよりは、その外側の世界秩序が変わり始めていたことの方がもしかすると重要なのかもしれない、とも思う。少し調べてみたいところである。



 現在のサント・フォワ教会は11世紀中頃の院長オルドリックの時代に着工し、12世紀前半の院長ボニファスの時代に完成した。その構成はオーヴェルニュ様式に似ていて、押し寄せる巡礼たちが内部をスムーズに移動できるよう、側廊、翼廊、周歩廊へと連なる巡礼路をそなえている。トゥールーズのサン・セルナン教会やコンポステーラのサンティヤゴ大聖堂と同様、この時代に成立した「巡礼路様式」を採用しているのである。(p.63)

全体の構成はオーヴェルニュ様式に似ているが、側廊の上部に設けられたトリビューンはより大きく、その空間が翼廊や後陣にまで連なるところが異なる。これが「巡礼路様式」の特徴である。(p.66-67)


巡礼路様式の詳細は分からないので知りたいが、ゴシックの大聖堂の平面とかなり似ているように見受けられる。



 西面の主題は「罪人の運命」で、下段には悪魔にいたぶられる「淫欲の罪人」と「吝嗇の罪人」の姿が大きく刻まれている。「淫欲の罪人」は乳房に蛇が食らいついた裸の女性の姿で表現されているが、これは古代の大地母神に由来する図像である。多産と豊穣を象徴する女神は、皮肉なことに淫欲の罪人となったのである。(p.110)


モワサックのサン・ピエール教会についての説明より。ここには行ったことがあり、この彫刻も見たことがあるが、それが大地母神の図像に由来するとは知らなかった。こうした背景を知ってから見るともっと興味深かっただろう。



修道院は1428年の地震で大損害を被り、修道士の姿も消えて、やがて廃墟と化してしまう。19世紀末、カタルーニャの詩人ジャサント・ヴァルダゲがこの廃墟をカタルーニャ語の詩に歌い、20世紀初頭にはペルピニャン司教カルサラードが修道院の復興に乗り出す。司教の呼びかけに応じて多くの若者たちが工事に参加し、少しずつ往時の姿を取り戻してゆく。こうして再興されたサン・マルタン修道院は、カタルーニャ文化とカトリック信仰のあらたなシンボルとなったのである。(p.139-140)


いわゆる国民国家化が進展する中で、自国のアイデンティティが求められていた時代に一致する。そうした流れの中で修道院が復興されたように思われる。こうして復興された修道院は比較的多いように見受けられる。

なお、絵画でも19世紀後半にロマン主義的な廃墟趣味が一部で流行していたこととも重なっているのは注目に値する。ここではローマ的なものが好んで取り上げられていたが、「ロマネスク」も古代ローマとの直接の関係は否定されるにしても、半円形のアーチなどの類似した要素を持っているとは言えるかもしれない。



 巨大な円蓋をどのようにして支え上げるのか。この大問題を建築家はパンダンティフと呼ばれる構造を使用することで解決する。方形の平面に円蓋を載せるため、身廊の四隅から曲面を伴う尖頭形のアーケードを立ち上げるのである。そのパンダンティフは円蓋の重量を支えるのに充分な幅と厚みをそなえている。しかし白い漆喰で仕上げられた円蓋は重さを感じさせない。こうして、重いのに軽やかな、ソリニャック独自の神聖な空間が生み出される。(p.157)


(恐らく)フランス語読みでパンダンティフと書かれている構造は、イスラーム世界で多用されていた。この構造はイベリア半島から伝わったのではなかろうか?文化的な交流の事例だとすれば興味深い。



シャルルマーニュは各地に修道院を創建、再建し、帝国の統治の拠点としたが、その管理のために『聖ベネディクトゥスの会則』の普及が欠かせなかった。(p.202)


大変興味深い指摘である。『聖ベネディクトゥスの会則』という同一の規則を持つことによって、各地の修道院の機構や規律を画一化することができ、相対的に画一的な指揮系統に組み入れることができる、ということか。

このあたりも含めて世俗権力と教会権力の関係を詳しく知りたい


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