アヴェスターにはこう書いている?
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岩沢健蔵 『北大歴史散歩』

 中央ローンの一画が、あたかも自然保護区のような観を呈しているのは、近年の北大当局者が自然を守る努力を惜しまなかったことにもよるが、もっと明瞭な理由があった。ここを流れるサクシュコトニ川の水量が急激におとろえ始めたのは昭和25、6年頃からで、これはちょうど札幌駅の大改築工事の開始時期に一致しているといわれているが、涸れ川となり果てたあとおしばらくの間は法律上、河川としての指定が解除されず、河川区域ということでこの一画内の建築が認められなかったことが、結果的には自然の地形を守ったのである。ちなみに、河川区域の指定が解除され、この区域全体が北大の管理下に入ったのは昭和49年11月のことである。(p.12-13)


中央ローンが現在あるような状態に保たれている理由。水量が減る前はサケが遡上することもあったというが、今では考えられないことである。



 最初の建立が、大正期の安定した帝国大学において、しかも功成り名遂げた大先生たちの手でおこなわれたのに対し、戦後の再建運動が、たとえば胸像の金属材料さえ入手困難という窮乏期に、戦場からかろうじていのちひとつ持ち帰ったというような栄養失調直前の学生たちの主導で始まったということは記憶にとどめるに値するだろう。(p.21)


北大構内のクラークの胸像とその再建についてのコメント。ちなみに、創建は大正15年、再建は昭和23年である。

なお、本書で解説されているが、クラーク胸像の台座の中央を飾る花模様はヴィクトリア・レギアという睡蓮で、若きクラークがロンドンのキュー植物園で見て感銘を受けたことによって植物学者・農学者になったという逸話から来たものである。



まだ残っているのは南門のガードマン詰所で、この木造建築は台帳によると明治36年(1903)、「門衛所」として建てられた。建築後80年以上、まさに、明治健在なり――。ついでに記せば、現在南門に立っている赤レンガの門柱は、昭和11年にいまの正門ができるまではその位置に立っていたものを移設したものである。(p.34)


意外なところに古い建物が残っているものである。また、正門が昭和11年に建てられたのは、北大が天皇の行在所となったためではないかと推察される。



 黒田清隆が学校運営の一切をクラークに任せきったのでクラークもあれだけのことができた。……(中略)……。▼男子ことを成さんとせば先ず人を選ぶ、選んだら任せきる、万一こと成らざる時においどんが腹バ切り申す、という薩摩型の美風がクラークとの関係において良好に作用した。▼佐藤昌介も後年、黒田の力を借りた。北大は、黒田の悪くちをいえない。(p.163)


黒田清隆という人物も北海道開拓を知るには必ず知らなければならない人の一人であると思われる。



 最近では、本書でも再々引用している越野武助教授(工)の「札幌農学校の建築」(『北大百年史』通説)に詳細な解説があるが、それら専門家の説明するところによれば、モデル・バーンの建築上の最大の特徴はバルーン・フレイムという構造にある。19世紀アメリカのホール建築とか大動物舎に多く見られる様式で、演武場や、穀物庫(重文指定の一棟で、ブルックスのコーン・バーンと呼ばれる)もこれによっている。
 簡単にいえば、柱材を主とする構造法でなく、薄板を構造材として多用し、外壁板全体に力を持たせることによって屋根等の重量を負担させる。それによって内部に広大な空間を確保する、というものだ。(p.165-166)


この工法の名前はしばしば聞くのだが、なかなか実地で見てもその構造が理解できないというのが実感である。理解を深めたいところの一つである。



 周知のとおり、すでに屯田兵制度があった。農学校生徒は、農の指導者であり、かつ有事において兵の指揮官であることが期待された。(p.175)


なるほど。



結局のところ、屯田兵は、ついに北海道防衛のためには一発の実弾も射たなかったが、明治10年の西南戦争には琴似、山鼻の全中隊が熊本に派兵され、西郷軍と戦って何人かの死傷者を出している。演武場で教練を受けた初期の学生が実戦の指揮官となることはなかったわけだが、のちの日露戦争に際しては、札幌農学校から79名が出征し、うち14名が戦死しているという事実を忘れてはならない。(p.176)


戦争というと日本では第二次大戦のことばかりが出てくるが、勝利した戦争での悲劇なども記憶にとどめられてしかるべきであろう。



 この碑の隣にもう一つ、「寒地稲作この地に始まる」と刻まれた石碑が建っている。地元の広島町が開基80周年記念事業として昭和39年に建てた物というが、北海道で稲作をおこなうことに対して極めて否定的な意見を述べていたのがクラーク博士なので、この取合せはいささか戯画的である。(p.190)


この碑とはクラーク別離の地碑である。ここには最近行ってきて非常に勉強になったのだが、クラークとの戯画的な関係についてまでは思い至らなかった。むしろ、この旧島松駅逓所では、クラークが別離に際してBoys, be ambitiousと言った後に続けてlike this old manと続け、このold manとは寒地稲作を実践した中山久蔵のことを指して言ったという説が紹介されているので、むしろ、クラークは寒地稲作を称揚しているものとして紹介されていたからである。

本書ではこのBoys, be ambitiousという言葉について考究されているが、そこからするとどうもこのlike this old manが続いたという説は採用できなさそうな感じがする。クラークが稲作に否定的であったのならばなおさらである。

ちなみに、引用文中の広島町は現在は北広島市となっている。



 要するに、むかしの日本人はすべてが――現在の日本人も相当部分が――義務教育でこれを教えられているのである。(p.192)


Boys, be ambitiousが有名な理由の一端はここにあったらしいことがわかる。



 明治19年(1883)3月9日、クラークはアマーストで死んだが4月22日付けの米紙The Christian Unionに内村鑑三がクラークを追悼する一文を寄稿した。内村は島松の別離の光景を叙述しているが、別れの言葉をBoys, remember that――.と記述している。that以下は、私は諸君に福音を伝えたことを最大の誇りとしている――それを忘れないでくれ、といったというのだ。じつはこれが別辞を記録した最古の文書なのである。
 内村も新渡戸も第二期生だったから島松の現場にはいなかったので、内村が追悼文で違う句を紹介したのを異とするには当らないかもしれないが、内村も新渡戸も、随分のちになってから、まるで、ボーイズ・ビーアンビシャスは彼らによって風教の資たるの地位を与えられたといってよいほど、豊饒な詞藻を展開するのである。(p.195)


Boys, be ambitiousはクラークが去ってかなりたってから彼の弟子たちによって弟子たちの伝えたいことを伝えるために利用されたという面があるようである。


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