アヴェスターにはこう書いている?
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大沼盛男 編著 『北海道産業史』(その2)

 札幌器械場を含む北海道の官営工場や鉱山の経営は、官業の常で、そのほとんどが収支は償わず巨額の赤字を抱えていた。開拓使は、そのため当初の計画をはるかに上回る2000万円余の巨費を北海道経営に投じて、その使命を終える。以後、北海道経営は3県1局時代を経て1886(明治19)年、北海道庁設置をもって新たな段階に入る。この期の経営目的は、岩村通俊長官の「自今以往ハ貧民ヲ殖エズシテ富民ヲ殖エン、是ヲ極言セバ人民ノ移住ヲ求メズシテ資本ノ移住を是求メント欲ス」という言に示されるように、本土における資本の原始的蓄積によって生成した資本と労働力を北海道に導入しようとするものであった。この資本導入を容易にするための保護育成策として、官営工場・鉱山などの超低価格による払い下げや、北海道に進出した大資本に対する利益保証、利子補給などが実施され、この手厚い保護政策に守られて政商・財閥・藩閥官僚などによる投資が急速に進展する。このように北海道では、本土における官業払い下げの時期に若干遅れながらも、道庁設置から1890年ころにかけて官営工場・鉱山の払い下げが活発化するのである。(p.194)


このあたりは北海道の工業に関する基本的な流れとして押さえておきたい。



 1889(明治22)年、幌内炭鉱と手宮間、幌内-幾春別間の官営鉄道が、北炭にわずか35万円余という破格の条件で払い下げられ(投下工費229万円)、しかもその後8年間に5%の利益保証が付され、利子補給総額は106万円にのぼった。北炭は、このような国の手厚い育成保護の下で、幾春別・夕張・空知の各炭鉱を開発し、積出路線として室蘭-空知太(現・滝川市)間、追分-夕張間に鉄道を敷設していく。鉄道部門の製造修理は、開拓使時代の1880年に設置された手宮工場が担ったが、敷地狭小により拡張が困難なため作業量増大に対応できず、1900年に岩見沢工場が新設された。1903年には工場の主力が岩見沢に移り、手宮はその分工場となる。(p.195)


官営工場等の払い下げが破格の条件であったというのはよく聞くが、その具体例。



 このように満州事変までの戦前期の北海道機械工業は、兵器・造船部門としての日鋼函館どつくという2大企業がそびえたち、さらに国内6大鉄道工場の1つに数えられた鉄道院(省)札幌工場をはじめとする鉄道院(省)道内諸工場と官営工場の歴史的系譜を継ぐ札幌工作が並立して、この4者で圧倒的な比重を占め、その周辺の第1次世界大戦中から1920年代の重化学工業生成期に次第に増加した零細な中小機械工場が群がるという構造が成立したと推定される。(p.203)


戦前期の北海道の工業はこうした少数の巨大事業体が主力だったということは、全体としては力がなかったことを反映しているとも言えそうである。



 明治の官営工場設立とその民間払い下げに始まる地場産業として成立した味噌・醤油工場と、府県から北海道市場に参入した津軽味噌佐渡味噌による三つどもえの対抗関係という図式が、これら製造業の北海道における歴史的な推移の特徴といえる。この枠組みは、明治期から今日に至るまで変わってはいない。(p.219)


本書によると、地場産業は小樽で事業を行っていた石橋商店が初めで戦前期には道内需要の大きな割合を占めており、津軽味噌は「かねさ味噌」の源流、佐渡味噌は「マルダイ味噌」の源流だという。



預金残高では、昭和10年代初期に小樽、函館、札幌の順であったが、1939(昭和14)年には札幌が小樽を抜いた。北海道拓殖銀行を含む貸金残高では、1938年から札幌、小樽、函館の順となっている。また手形交換高では、1937年4月には小樽が函館・札幌のおよそ2.5倍の規模であったが、1941年末に札幌が小樽とほぼ肩を並べ、函館は小樽・札幌の半分以下の規模であった。この3市の金融部門における勢力関係の変化は、卸売商業についてもほぼ当てはまるように思われる。(p.278)


1940年前後に札幌が躍進し、戦後には圧倒的な位置を占めることになる。



さらに、樺太市場の消滅が小樽市卸売商業に大きな打撃を与え、千島市場の消滅と北洋漁業の衰退が函館市の卸売商業の活動領域を大幅に狭めたことが、小樽・函館両市における卸売商業の衰退に拍車をかけたのである。(p.278)


小樽と函館の衰退の要因。



 ここで、北海道の卸売商圏について整理する。明治・大正期では、函館・小樽両市の卸売商業が北海道商圏を支配していたが、大正から昭和初期にかけて札幌市の卸売商業が台頭し、昭和初期には札幌、小樽、函館3市の鼎立状況が成立した。その後、戦時統制期を経て札幌市では卸売商業の勢力が著しく拡大し、小樽・函館両市の卸売商業は広域卸としての地位を失い、地域卸売商業となった。これに対して道外商社が多数進出した札幌市の卸売商業は、小樽・函館市の卸売商業が担っていた広域卸機能化をほぼ一手に引き受け、また札幌圏人口の急増化にも支えられて一極集中構造を確立したといえる。(p.280)


北海道の商業構造の変動を的確に要約している。



 ところで、本州からのバブル資金流入で大きな影響を受けたのが函館市である。市の西部地区がマンション建設ラッシュに見舞われたため、1988(昭和63)年4月には景観が損なわれないように歴史的景観条例を制定。同年9月には伝統的建造物群保存地区にも指定している。(p.302)


こうした規制の様子は函館山からの景観を見るとある程度は容易に推察できる。


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