アヴェスターにはこう書いている?
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高良倉吉 『琉球王国』

 もし薩摩が王国を完全に潰してしまい、自己の直轄領に編入して藩内行政と同レベルで琉球の地を扱うようになっていたとしたら、それ以後に琉球の歴史はまったく異なったものとなっていたにちがいない。薩摩が琉球の地を完全に自己の内部にとりこめなかった事情の一つに、それ以前にすでに独自の国家として存続しつづけてきた琉球の重みがあったのである。(p.73)


琉球の「本土」への組み込みを明治の北海道や台湾の植民地化と比較してみたいところである。

琉球王国という独自の王国が存在していた琉球と、独自の統治権力がなかった蝦夷地の組み込みの過程はいろいろな点で対照的で興味深いものがある。例えば、組み込み後に手厚く予算が配分された北海道とそうではなかった沖縄という点でも対照的であろう。ただ、この点は統治権力の有無というよりも、ロシアの南下の脅威というものが決定的な因子となっていると考えられるが。こうしたことも含めた「組み込みの方法」もおそらく大きく異なっていたと思われ、主にこの点について少し調べてみたい。



 すでに述べたように、1368年に成立した明王朝は、諸外国に対して冊封・進貢政策とでも称すべき対外姿勢を打ち出した。……(中略)……。
 この政策のポイントの一つは、冊封・進貢関係をもたない国々の船舶の中国入域を認めなかった点にあり、当時中国沿岸を荒しまわっていた倭寇・海寇などの武装民間貿易勢力を排除しようとする意図をふくんでいた。(p.78)


こうした政策が可能であった背景には、中国の商品が諸外国で持つ価値の大きさがあったものと思われる。経済力や技術力、さらには軍事力を背景としてこうした国際秩序は可能だったと言える。



 明朝は国ごとに入域港を指定し、市舶司とよばれる入関機関をおいて外国船の往来を管理した。琉球は福建省の泉州、日本は浙江省の寧波、東南アジアおよびそれ以西の国々は広東省の広州である。琉球専用の指定港となった泉州には来遠駅(泉州琉球館)が設置されたが、1472年に市舶司が同省の福州に移転したため、以後は柔遠駅(福州琉球館)が琉球専用の窓口となった。駅名をもつことに示されるように、入域指定港は中国国内の駅逓制度に位置づけられており、海外諸国に対して開かれた窓口の役割を帯びていた。したがって、いかに進貢国といえども、指定港以外の港に自由に出入りすることはできなかったのである。(p.80)


冊封とか朝貢という言葉は歴史に関する本を読むとよく出てくるが、それがどのような制度だったのかということは実はあまり知られていないように思う。

入港できる港が指定されていたというのは、日本の鎖国(こちらは明文化された制度ではなかったようだが)とも共通しており興味深い。



 冊封・進貢政策下での公的ルートを使って中国商品を容易に入手しうる者、また、海禁政策によって後退した中国商業勢力の穴を埋めきれる者にとって、中世東アジア世界にまたとないビッグチャンスが訪れたことになる。このビッグチャンスを手にしたのが、東シナ海の東端で王国形成の動きを展開していた琉球であった。(p.81)


中国商品には需要があり、欲しい者は多かった。供給は冊封・進貢政策で規制されていたため、供給不足の状態となっていた。中国の商人は海禁政策のため自由に活動できず、国内の商人たちは供給の担い手になる機会を相対的に奪われていた。琉球は進貢頻度が他国より多く、多くの中国商品を入手できた。進貢国間には通商可能なネットワークができていた。東南アジアにはまだヨーロッパの武装した勢力は現われていなかった。これらの要素が重なったことが琉球の中継貿易が繁栄できた条件であったようである。



 漢文が国際的な公用文として、また、中国語が国際語として十分に通用したのは、このような中国人ネットワークが存在したからであった。ということは、那覇港の近くに立地した久米村のような存在は琉球独自のものだったわけではなく、少なくとも東南アジア世界にも共通する一般的な在外中国人居留区の一つだったことになる。(p.98)


なるほど。



仮名文は、13世紀頃、琉球にわたった日本僧が伝えたというが、その日本僧たちは琉球にあって対日本外交を担当した。すなわち、中国・朝鮮・東南アジアとの外交業務を久米村の中国人が行ったのに対し、日本については渡琉した日本僧が関与したのである。(p.102-103)


首里城の城内(外郭)に王家の菩提寺である円覚寺があるのも、こうしたことが関係していると思われる。



 だが、あらためて注意しておかなければならないのは、琉球の海外貿易ルートがマラッカにまで達したとき、自動的にインド洋、西アジアそして地中海世界という西方に延びる貿易ルートと結ばれたということである。琉球の東南アジア貿易は、マラッカを介してさらに世界的な貿易ネットワークに連結されたのであり、その象徴的な事例がマラッカにおけるインド人との取引だったのである。(p.104)


マラッカの位置づけに興味が引かれる。



 16世紀に入ると、ポルトガル・スペインに代表されるヨーロッパ勢力が進出し、明朝も弱体化して海禁政策が実効性を失うとともに中国商人が大量に海外に進出するようになった。このため、琉球の海外貿易はしだいに後退を余儀なくされる。しかも、16世紀の後半になると、日本商人が直接東南アジアに展開するようになったため、琉球の東南アジア貿易は、1570年のシャムへの遣船を最後に記録から姿を消してしまう。東アジア・東南アジア世界が巨大な私貿易・民間貿易のための空間に変容したのであり、それまで琉球が占めてきた中継貿易の地位は失われたのである。(p.105-106)


16世紀における東アジアおよび東南アジアの貿易のドラスティックな変容の中で琉球の地位も大きく変わっていった。

冊封・進貢体制という公貿易を中心とする制度が機能しなくなり、貿易のアクターが変わった点も興味深い。政府がバックアップする軍事力をもってヨーロッパの勢力が侵入してきたのは、まさにこうした私貿易の空間だったことにも留意してよいのかもしれない。



 1372年から1472年までの100年間、琉球専用の入域指定港となった泉州は、元朝の頃までは中国最大の貿易港として知られ、マルコ・ポーロも『東方見聞録』でその繁栄ぶりを特筆しているほどである。(p.108)


泉州がこれほど大きな貿易港だったということは、あまり意識したことがなかったので参考になった。


以上までの引用文とそのコメントの中では書けなかったが、本書は第四章と第五章で辞令書を史料として琉球王国の統治機構と社会のありようを明らかにしていくが、この方法論は他の地域にも活用できそうであり、非常に参考になった。このあたりは本書から得た最大の収穫であった。


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