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アヴェスターにはこう書いている?
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立岩真也 『ALS 不動の身体と息する機械』(その1)

 近代医療に対する批判的な言説は、一つに、それが効果がないこと、健康に寄与していないことを指摘した。例えばある種の感染症、例えば結核が減少したのは特効薬とされたもののためでなく全般的な栄養状態の改善によることが指摘される(佐藤純一[2001]等)。それはその通りであることを認めよう。そしてこうしたことを指摘することは、医療に対する過度の期待をさます意味で有効である。
 ただこのことは、医療にときには効果がある場合を否定するものではない。・・・(中略)・・・。効果があるとなれば、ときには別の体系に属するとされる方法も取り入れられる。こうして近代医療は自らの範囲を拡大させていく。
 ・・・(中略)・・・
 つまりは効果のあるものが医療であり、近代医療であるとなれば、それが成功を収める領域はしだいに増えていき、批判の妥当する範囲は狭くなっていく(立岩[2002-2003(1)])。
 ・・・(中略)・・・
 だが、効能のなさの指摘も、それをもって医学・医療総体の批判に向かおうとするなら、うまくいかない。別言すれば、こうした批判は局所戦として有効なのであり、そのことに固有の価値・意義がある。(p.63-64、強調は引用者)



「総体に対する批判」と「局所戦として有効な批判」と図式化してみたくなるが、そうした単純化をするよりも、何かを批判する場合にも、その妥当範囲を見据える必要があるということをこうした指摘から確認したい。

こうしたメタ批判の視点を持ちながらの批判をすることは、一般に「運動家」にはなかなか難しいようだ。社会科学が提供する一歩引いた立場からの観察・考察の意義はこうしたところにあるのだろう。




 家族に他の人たちより多くの責任を課すことは、現実の法律がどうなっているかとは別に、できない(立岩[1992])。それは極端な主張だと思われるだろう。そこですこし譲歩してもよい。他の多くの家族が果たしている程度の義務は負うとしてもよい。しかしそれでもALSの人の家族に普通の家族に付されている義務以上の義務を課すことの正当性は、どのように探しても見つからない。このことは認めてもらえるはずだ。
 だから、告知のことについても、その後のことについても、他の人たちより多く家族を非難することはまったくできない。他の人たち、つまりALSの人の家族でない多くの人たちは、重い部分を他に渡し、負担から逃れ、そのぶん楽をしている。知らせること、知らせた後のことから逃れるのはまずは医療の側である。ただ、医療者に(その人たちがきちんとできない)仕事を委ねているのは社会である。例えば入院の拒否もまた病院側の都合とだけ捉えられない。それは予算配分のあり方に由来する。こうして家族は、問題が回避されていく場所であり、迷路が行き止まりになっているその場所にされてしまっている。それは、時にはその根拠が考えられることもなくただなされている。また時には正当なこととされる、あるいは仕方のないこととされている。(p.141、強調は引用者)



家族が問題が回避されていく場所にされているという指摘は重要である。医療の問題に限らず、その他の問題でもこのようにされてしまっている。いきなり家族に押し付けられないようなことは「地域社会」に押し付けようともされている。それが近年の政策の流れになっている。それを正当化するために――荒唐無稽な話だが――「(日本の)伝統」が持ち出されたりもしている。

「官から民へ」とか「小さな政府」とかいう一般に常識にさせられてしまった感さえあるスローガン、また、地方自治などの場でしばしば言われる「協働」や「市民参加」などの言説の意味するところは、まさにこのような「家族のような『より小さく弱い社会集団』への問題の押し付け」であることを有権者はよく理解すべきである。

最近で言えば、教育基本法の改定に関して、「地域総がかり」での教育をしていく、などと言われたことなどが、それである。私の予想では、この言葉の意味は、教師たち以外の人も教育に関係するというようなイメージではない。中央政府は教育に関する負担を減らし、地方自治体に負担させることを意味していると考えている。

つまり、負担を自治体に負わせ、それで自治体の財政が立ち行かないところが出て来たら、「地域総がかり」で(つまり、夕張市のように「その地域だけ」増税などをして)教育の費用を負担しろ、ということだと思われる。実際、「愛国心」などの国家主義的イデオロギーの部分ばかりがクローズアップされたので、あまり知られていないと思うがが、改定された教育基本法にはその方向性を示した文言が既に載っている。このように「より(財政規模や権限、自由な裁量の余地などが)大きな主体は問題を回避し、より小さな主体に『痛み』を押し付ける」という流れに向かっている。

これに関連することは、以前、「ツァラトゥストラはこう言っている?」のブログの方に少し書いておいた。

教育基本法の政府案への批判

もっと分かりやすい例を挙げれば、失業は多いままであり、非正規雇用が増え、庶民の所得は全く増えず、生活保護世帯はほぼ10年間で60.2万世帯(95年)から104.2万世帯(05年)にまで増え、ワーキング・プアなどと呼ばれる人たちも増えている一方、一部の国際的な資本を持つ大企業だけがぼろ儲けしているという現在の日本の経済を見れば、それは明らかだろう。所得が増えていない点については、このブログでも取り上げた。

橘木俊詔 『格差社会 何が問題なのか』(その2)

その上、ホワイトカラー・エグゼンプションなどという制度を設けて、ある程度の所得水準を維持している正規雇用のサラリーマンの所得水準まで押し下げようと狙っている。大企業を有利にし、労働者を不利にするというやり方も、同じような「より小さな主体への『痛み』の押し付け」だと言える。

なお、この制度は(選挙を見据えて与党からも「慎重論」が出ているため)今回の国会では成立しないかもしれないが、選挙が終わったら確実に断行しようと狙っているのが与党(自民党と公明党)である。

こうした流れを「仕方ない」で済ませてはいけないと思う。福祉(年金や医療保険も含めた)の安定供給や労働者など個人の基本的な人権をしっかりと保障するような政策をするために、政府の役割を問い直す時期に来ている「小さな政府」というイデオロギーは正しいのか?と。
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