アヴェスターにはこう書いている?
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折原浩 『学問の未来 ヴェーバー学における末人跳梁批判』

 筆者は、50年の研究歴/40年の研究指導歴(とくに古典文献購読ゼミの経験)から、ヴェーバーにかぎらず、古典といわれる書物は、そう簡単には理解できず、三読四読し、沈思黙考し、「議論仲間」の友人と議論したり、先輩や師匠に問い質したり、研究文献/二次文献に当ったりして、ようやく読解の糸口が摑め、だんだん分かってくるものではないかと思う。そうであればこそ、そうこうするうちに、そのように「努力して分かる」こと自体が楽しみとなり、それを励みにいっそう努力するという好循環も生まれよう。そのようにして、初見では難解な古典文献を根気よく精読するうちに、「恣意を克服して対象に就く(Sachlichkeitの)精神」も育ってきて、これがやがては文献読解以外にも、現実の問題に対処する場面で、その人のsachlichで明晰な判断と態度決定に活かされるのではあるまいか。ここに、「古典を学ぶ」意義のひとつがあると思う。(p.135-136)


同意見である。人間たるもの、大いにSachalichkeitの精神を養うべきである。

これに付け加えるとすれば、こうした古典文献に取り組むのは20代までにやっておくべきだということである。社会で活躍する年代になってからこうしたことを学ぶのは意味がないわけではないが、機会の面でも習得水準の面でも他に取り組むべき現実の問題との優先順位から言っても最優先の事項とはならないだろうからである。



 筆者が思うに、ヴェーバー歴史・社会科学の方法は、「ロッシャーとクニース」「客観性論文」「理解社会学のカテゴリー」といった抽象的方法論文をなんど読んでも理解できないし、いわんや、その手順を会得し、「自家薬篭中のものとして」応用することなど、思いもよらない。むしろ、方法論文から読み取った抽象命題や知見がじっさいにはなにを意味しているのかを、たとえばこういうBeruf語義の歴史的「意味(因果)帰属」といった具体的適用例について、なんども確かめ、みずから歴史的諸与件(聖典の特定箇所の意味解釈など)も調べて熟考し、しかもそうして具体的に捉えられた方法を、試みに繰り返し、自分が直面している状況の問題に適用して――抽象的な方法論と具体的な経験的モノグラフとを統合的に解読するとともに、状況内主体として応用を重ねることで――初めて的確に会得され、「身につく」のではあるまいか。(p.203-204)


同意見である。折原流のウェーバー理解である抽象的方法論と経験的モノグラフがセットになっているという認識にも賛同できる。



本稿では、当面の問題にかかわる一端に触れると、ヴェーバーは、「倫理」論文初版を『社会科学/社会政策論叢』第20/21巻(1904/1905)に掲載するのに先立ち、第19巻(1904)に(「客観性論文」とともに)「プロイセンにおける『信託遺贈地問題』の農業統計的、社会政策的考察」と題する論文を発表していた。そこで槍玉に挙げられ、克明に分析され、(分析とは峻別して)価値評価もくだされているのが、右記、資本を土地に転じ(逃避させ)て(土地)貴族に成り上がる――そうしたがる――ドイツ・ブルジョワジー(資本主義的企業家層)の一類型(「亜流者」)である。ヴェーバーは、かれらが、「ブルジョワジー」としての「存在被拘束性」をあえて引き受け、「貨幣増殖」「資本蓄積」を「職業的使命」として担い、生涯その使命に徹しようとするのではなく、虚栄心から「土地貴族」に転身しようとする「脆弱性」(その意味における「階級」としての未成熟性)を痛撃してやまない。と同時に、社会科学者としては、「ブルジョワジー」という社会層(統計的集団)が、現実には「『資本』という経済学的カテゴリーの人格化」(マルクス)としては振る舞わず、「資本家機能」に甘んじず、「生身の人間として」(「貨幣増殖」「資本蓄積」よりも)「名声」「名誉」を求めて行為し、社会層間を移動し、そうした動向がドイツにおける近代資本主義発展の減速をまねいている以上、(ヴェーバーにとって「由々しい」)そうした現実を問題として直視し、理論的に説明するには、(たとえば「ブルジョワジー」という社会層をなす)諸個人の「社会的行為」について、その「動機」を「解明」「理解」するとともに、(そうした「社会的行為」の)「集合態」の制約/規定条件としては、(経済財の所有-非所有にもとづいて「ライフ・チャンス」を共有する人間群/統計的集団としての)「階級Klasse」だけではなく、それに加えて(「社会的名誉」感と「ライフ・スタイル」に根ざす人間群/ゲマインシャフト形成態としての)「身分Stand」の概念も構成/用意して、(諸社会層をなす)諸個人の「集合態」的行為の動態を「複眼的」に分析する以外にはないと考え、その道を切り開いていくことにもなろう。(p.316-317)


従来のマルクス主義における「階級」概念に加えて「身分」概念などを構成し、経済決定論的で一元論な傾向を持つマルクス主義の理論(一時期には優勢な勢力を持っていた)に対して、名誉の観念などを取り入れることでより多元的に理解することを可能にしたことが、かつての(特に冷戦期における)日本の社会科学におけるウェーバー受容の意義であったように思う。

これに対し、ウェーバーの現代的な意義はさらに問い直す必要がある時期に至っているように思われる。



ヴェーバーは、「非ゲマインシャフト行為」(「多勢の同種行為」「群衆行為」「(機械的)模倣行為」など)と「ゲマインシャフト行為(=社会的行為)」とを分け、後者をさらに「(無定型の)ゲマインシャフト行為」-「(諒解)ゲマインシャフト行為」-「(ゲゼルシャフト)ゲマインシャフト行為」に三分する「類的理念型」尺度を考えていた。(p.419)


ウェーバーのゲマインシャフト行為の周辺の概念は『理解社会学のカテゴリー』と『社会学の根本概念』との使用概念の変更なども伴って、なかなか理解しにくいが、本書の解説をとおしてこれらの諸概念についての理解が深まったのは個人的には収穫であった。


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