アヴェスターにはこう書いている?
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梅溪昇 『お雇い外国人 明治日本の脇役たち』

幕府が1842年(天保13)異国船打払令を撤廃し、文化の薪水給与令に復帰したのも、アヘン戦争の情報に驚いて外国との紛争を避けようとしたためであり、それだけ外圧の強さに脅かされたものであった。
 対外情勢のこうした変化は、西洋軍事学の知識をますます必要とするようになり、ここに蘭学の主要部門を天文学、医学から軍事学へと転回させるようになった。長崎の町年寄高島四郎太夫(秋帆)のいわゆる西洋式の高島流砲術もこのころから広まっていった。
 そこへ1853年(嘉永6)ペリーが浦賀に来航し、外圧が直接日本に加えられた。この来航を契機として、歴史展開のうえでは、とちらかといえば、これまで外患を掲げて国内の社会的矛盾を解決しようとする傾向が強かったのに対して、これ以後は、現実化した外患に対処する政治的課題の方が圧倒的に優勢となった。幕府の有識者が開国に踏み切ったことは、それだけ海外情勢に通じていたためであるが、情勢に暗かった攘夷論者は、幕府が外夷の威圧に屈したと考えて幕府の開国政策に反対し、攘夷の実行を叫んだ。(p.34-35)


アヘン戦争の与えたインパクトの大きさには興味を惹かれる。

また、軍事面への関心のシフトを強めざるを得なかった情勢ということも重要な点であろう。そして、本書によれば、「お雇い外国人」もまずは軍事面から導入が始まっていくことになるのである。



 このように対外戦を経験し、西洋近代軍事力のために惨敗したことから、両藩では尊王攘夷論者から開国論者への転向が広く行なわれ、かえってイギリスへの接近が顕著になった。(p.50)



 以上のように、万延、文久、元治にかけて英学が盛んとなり、また諸藩の兵制もしだいに蘭式から英式に変わるようになった。とくに反幕勢力の中心である薩長両藩ではイギリスへの接近が顕著となり、その接近を通じて軍事力の近代化と殖産興業を図り、富国強兵の実をあげるようになってきた。また、イギリス側も元治から慶応にかけて、積極的に反幕派のこれら薩長両藩を援助したので、かねてから海外発展についてイギリスと激しく競争していたフランスは、このイギリスの反幕派援助に対抗して、幕府援助の政策を積極化するようになった。(p.53)


幕末に薩長が西洋諸国と実際に戦争をして敗れたことが、かえって西洋への接近を促したというのは、一見逆説的だが興味深い。また、薩長とイギリスの接近が、薩長が対立していた幕府とイギリスが対立していたフランスとの接近の契機となったというのも、興味深い外交的な動きである。



すなわちわが国は、両国駐屯軍の引き揚げ要求とひきかえに、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式の採用決定をはっきりするよう両国から要求されていたのである。(p.97)


外交関係が統治機構の構造や内容などにも影響していたことの一例。主権国家という虚構の概念はある種の理想的なものとして描かれているが、現実には描かれている通りのものとしては存在していない。ウォーラーステインがいうインターステイトシステムに組み込まれており、主権を持っているとされる諸政府もそうしたシステムの要素をなしているに過ぎない。



 当時工学は、ようやく単純な技工の域を脱し、学理にもとづいた専門学となってからまだ日が浅かった。したがって、工学を総合統一した学校はイギリスにもなく、わずかにスイスのチューリヒに一か所あっただけである。ダイエルは工部大学校都検(教頭)兼土木工学および機械工学教師として、1882年(明治15)まで勤続した。その間、工部大学の創業にさいしてチューリヒの組織を基礎にその組織を構成した。……(中略)……当時ではこのように各科を総合した工学校は、海外にも少なく、世界的にもきわめて優秀な組織であったのである。(p.140-141)


工部大学校という実学を行う総合的な学校が明治の日本に存在したことは世界的には珍しかったという。

これと類似した事情は農学の分野にもあったように思う。日本における農学部の源流は、1876年に開校した札幌農学校(現在の北海道大学)と1877年に開校した三田育種場、1878年に開校した駒場農学校(現在の東京大学)であるとされるが、当時は大学に農学部というものを持つ大学はヨーロッパには(ほとんど?)なかったようだからである。

こうしたことには、軍事や経済的な必要に迫られて実学重視で学問を移入した当時の日本と、中世以来の「大学」の伝統をある程度まで引きずっていたヨーロッパとの違いが反映されている面が反映しており、興味深い。



 以上のように明治における絵画、彫刻、建築の近代化が、その源を工部美術学校に発することは、注目を要する点である。その学校諸規則において、「美術学校ハ欧州近世ノ技術ヲ以テ我日本国旧来ノ職風ニ移シ百工ノ補助トナサンガ為ニ設ルモノナリ」と工部美術学校の目的を述べているところに、明治の美術が文化的運動そのものとしてでなく、殖産興業という国策のもとで経済的実用的な目的から近代化への道を歩まざるをえなかったことがうかがわれよう。(p.148)


興味深い指摘だが、こうした目的とは別に実際には単に経済的殖産興業というだけでなく、文化的な側面から取り入れようとした人も多くいたのではないかと思われる。



 こうしてフェノロサは、1878年(明治11)8月、25歳の若さでお雇い外国人教師として来日した。かれがわが国の人文科学の発展に寄与したところは大きい。とりわけ特筆されるのは哲学、ことにヘーゲル哲学を初めて講義して、ドイツ哲学移入の端緒を開いたことである。
 ……(中略)……。当時アメリカには、まだプラグマティズムは起こらず、したがって固有の哲学がなく、説いたのはドイツ哲学であった。(p.165)


哲学といえば確かにドイツのものが多く入ってきていたが、アメリカの哲学は明治初期にはまだ十分に発展していなかったという点はなるほどという感じである。



 こうしてかれは、1886年(明治19)まで大学で講義し、アメリカ生まれでありながら、わが国に初めてドイツ哲学を移植し、明治10年前後までわが国において支配的であった英仏哲学に代わる、その後のドイツ哲学の台頭、流行の端緒をつくり、わが国の国家主義、国粋保存主義の台頭に大きな影響を及ぼした。かれ以後、ブッセ(Ludwig Busse)のロッツェ哲学、ケーベル(Raphael Koeber)のハルトマン、ショーペンハウエルの哲学などが続き、哲学といえばドイツということに定まった観を呈するようになった。(p.167)


明治10年頃までは英仏の哲学が支配的だったというのは、やはりこれらの国の人々との接触が多かったことを反映していると思われる。帝国主義的な進出の先導的な国々であることを反映している。ドイツの哲学が流行したのは、おそらく英仏に対して後進的な立場にあり、それを追い、相対的に劣位にありながら競争しなければならない立場にあったドイツでは「国家」というものの力を求めようとするモメントが英仏と比べると比較的強かったという事情が思想内容にも反映しているように思われ、そうした立場は当時の日本の人びとや政府の立場とも共通性があるため、取り入れやすかったということが背景にあるだろう。単にフェノロサが教えたから広まったというものでもあるまい。



 しかし、ひとたび東京を離れると、こうした欧米風の生活を味わうことができなかった。モースは……(中略)……研究旅行で北海道の小樽まで行ったときのことを、「私は今や函館と、パンとバタとから百哩以上も離れている。(中略)珈琲一杯と、バタを塗ったパンの一片とが恋しくてならぬ。私はこの町唯一の、外国の野蛮人である」と記している。(p.193)


東京と地方との相違というのも興味深い問題である。特に当時の北海道と「内地」との違いも。



こうしてみると、「お雇い外国人時代」の盛期は、1870年(明治3)より1885年(明治18)に至る、いわゆる「工部省時代」と相重なり、ほぼ明治20年前後までである。それ以後は衰退期に入り明治30年前後、19世紀末において、歴史的な意義をほとんど失ったといえよう。(p.223)


約15年間である程度までキャッチアップし、国内の人材だけで知識や技術を導入できるだけの基盤を整えたということか。



 要約すると、アメリカ人は文部省(教育)、イギリス人は工部省(技術)、フランス人は工部省(技術)、陸軍省(軍事)、ドイツ人は文部省(教育)関係において最も多く活動し寄与した。そして1879年(明治12)ごろを画期として、その人数において英、仏、米、独の順位が英、米、仏、独となり、その後、英、独、米、仏へと転化したといえるだろう。(p.233)


国と導入分野に密接な関係がある点は興味深い。また、人数の変遷からはイギリスの優位とドイツの勢いが注目に値する。



 ここから明らかなように、お雇い外国人経費が著しくかさんで政府財政・各省予算を圧迫したことが、かえってお雇い外国人の技術的指導への従属から一日も早く自立しようとする熱望を産み出し、それが工学寮工学校(工部大学校)に結集して日本人技術者の積極的養成となった。(p.241)



興味深い。




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