アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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マイケル・サンデル、小林正弥 『サンデル教授の対話術』

 子どもたちがまだ幼いうちに、野球は個人スポーツではなくチームスポーツだということを教えたいと思ったのです。そういうメッセージ、教訓を伝えるために、ホームランのような個人的な達成にはご褒美をあげませんでした。そのかわりに、ルールを作りました。選手の誰かひとりでも、守備の時にバックアップ――つまり選手の誰かが落球するなどのエラーをした時にどの選手であろうと仲間のエラーをカバーしてアウトにもちこんだら、チーム全員にスニッカーズのキャンディーバーをあげることにしたのです。誰であろうとも味方のエラーをカバーしたら、チーム全員がスニッカーズをもらえるわけです。
 ひとりひとりが個人的にヒーローになろうとするのではなく、チームスピリッツが生まれました。(p.21)


サンデルの思想から私が学んだことの一つは、賞罰を他人に与える場合の基準は目的論的に考えると適切に設定しやすいということだった。サンデルが以前、少年野球の監督をしていた際のこの手法もまた、このことを念頭においていると理解しやすい。



 そうですね、私がソクラテスや彼の方法に関して感じてる唯一つの問題は、彼が多くの人をいらつかせ、怒らせてしまったことなのですよ(笑)。実際、彼はそれで死刑になってしまったわけですよね。(p.35)


サンデルの教授法がソクラテスを思わせるという小林の指摘に対するサンデルの回答。確かに、サンデルの指摘していることは、ソクラテスの問答法の問題点と言えば問題点かも知れない。



 私はコースの大部分で自分の意見を言いません。私はどの理論も、どの哲学も、はじめにできる限り最も強いものとして教えたいと思っています。そうすれば、学生たちはその考えの背後にある道徳的な力を正しく理解します。
 次に、学生たちの助けを借りながら、それに対する可能な限り強力な反論を展開します。そして、その反論に照らして、別の哲学を考えていくのです。
 ……(中略)……。
 コースの最後の数週間になって私の見解を聞く頃には、学生たちはすでに一連の別の見解や観点を身につけていて、私が提示するものを受け入れたり、拒否できる立場にあります。そして、彼らは私の考えに挑戦したり、疑問を呈することにためらいはしません。(p.44-45)


できる限り強いものとして思想を教えながら、それに対する批判を吟味していくという姿勢は参考になる。一人で読書をしながら思想を身につけていくときにも、こうしたプロセスを経ることが多いが、講義でもこうしたことは可能だということがわかった。

また、後段で述べられている考え方は、ウェーバーのWertfreiheitの複数の意味の内の一つとされる所謂「講壇預言の禁止」を乗り越えた教育方法論の提示になっている点が私にとっては特別に興味深い。ウェーバーのWertfreiheitはサンデルが批判する「中立性の理想」を完全に体現しているような考え方だが、教授法においてもサンデルはこうした考え方を適切に乗り越える形で処理しているようだ。



 そうですね、民主的社会における公共的言論のレベルを上げるために、私たちができることは数多くあると思います。……(中略)……。
 私たちがすべきことの一つは、民主的な企て(project)を再び活性化する手段として、この社会における公共的言論の質を高めることだと思います。その面において、教育機関は特に大きな役割を担うでしょう。……(中略)……。
 また、メディアが担う役割も大きいと思います。公共の場での言論の質は、部分的にはメディアが何を提供し、要求し、示すかによるからです。多くのメディアは、怒鳴り合いのような争論や、視野の狭い議論を取り上げます。私は、メディアは、真剣な議論と礼節に基づいて意見の不一致を明らかにするための場(forum)を提供する必要があると思います。
 最後に、政党も公共的言論の質を高める上で重要な役割を担っていると思います。しかし、国民がそれを[政党に]要求するまでは、達成されるとは思いません。つまり、[公共的言論の質を高めることは]教育機関やメディアが、より良く、高尚な公共的言論を作り出せるかにかかっているのです。(p.46-47)


サンデルが「白熱教室」以後もNHKの番組にしばしば出演しているのは、こうしたメディアの役割を考えてのことであると思われる。

メディアで怒鳴り合いのような争論や視野の狭い議論が幅を利かせているという指摘は、日本における田原総一郎の番組(朝生)ややしきたかじんの番組(そこまで言って委員会)などを想起させる。

教育機関とマスメディアにはサンデルが期待しているような役割を果たしてもらいたいと私も思う次第である。



 私は、教えることの非常に重要な部分は聴くことだと思っています。……(中略)……。学生が何を表現しようとしているのかを想像しながら耳を澄まし、そして他の学生の反応を促すことが非常に重要ですね。
 聴くことに関して、教師の立場からは、もう一つ重要な点があります。それは、今説明したような、行ったり来たりしながら議論を表すこととは関係ありません。
 それは、こういうことです。講義があまりうまく進んでいなくて、学生たちが混乱したり、退屈したりしている時、私はそれにすぐに気が付きます。なぜだと思いますか。講義がそのような状態の時は、学生がやたらに咳をしたり、足をちょっと動かすなどの音が教室内で聴こえてくるのです。……(中略)……。
 ですから、教室内の音をよく聴いていれば、「何かをもっとうまく説明しなければならない」「話題を切り替えなければならない」といった合図が私に送られてくるのです。
 ですから、聴くことには二つのレベルがあります。一つめは、学生が実際に話していることを聴いて、理解し、時には言い換えてあげるレベルです。もう一つが、単に教室の感覚や感触、雰囲気に耳を澄ますというものです。(p.53-55)


聴くことの重要性というのは、なるほどと思わせる。聴くというと私はいつも「Vernunft」というドイツ語を思い浮かべる。この語は「理性」という訳語があてられるが、聴くという語と語根を同じくしている。サンデルの理性的な対話による教授法は、まさに「理性的」な方法であると私は思う。



 そうですね、まず私の授業の目標のひとつは、礼節(civility)や他者への尊重といった習慣を育てることにもあります。お互いの話をよく聞くことなども含む、こうした礼節の習慣を育てる一番いい方法は、あまり規則を定めないことです。教師のなかには、「あらかじめ規則を定めることが有用だ」と考える人もいます。しかし私は、教室で礼節さや他者の尊重といった習慣を育てるためには、規則を定めるよりも、例を示すことのほうが重要だと思います。規則がある程度助けになると考える教師もいるかもしれませんが、私の経験では、事前の規則よりも、議論を招くような異なる考えを持っている教師や学生の間で、互いを尊重した意見交換の例やモデルを示すことを通して、こうした習慣が身につくと感じています。(p.71)


本書の中でも非常に参考になった箇所の一つ。

私自身の経験からしても、こうした礼節を伴う議論がありうることを知ったのは、モデルとなる議論を見たり体験したことによる。

ちなみに、規則を定めないということでいうと、札幌農学校にクラーク博士が来た時、彼が定めた規則は「Be gentleman」だけであったという逸話も想起された。



いま人々の間に、重要な道徳的・倫理的問題、価値や正義についての問題に対する真の、真剣な議論を行いたいという強い切望や欲求があるのだと思います。現在、私たちの社会では、あまりにもしばしば経済論理が真の公共的議論を押し出してしまっています。ですから、私の単なる推測ですが、大きな道徳的問題についての真摯で大胆な、かつ対話相手を尊重した討論を行う可能性に人々が興奮しているのではないかと思うのです。私がハーバード大学で教えている学生たちはそうです。私の「正義」の授業では、過去の有名な哲学者についての議論を行いますが、その時に、哲学者たちを単に歴史上の一つのエピソードとしてみなしているわけではありません。彼らも、私たちが現代において考えている議論への参加者だと考えているのです。(p.112-113)


ネオリベラリズム的な政策や言説が現代社会の中に強く浸透していることが、公共的な言説を貧困化させており、そのことをどこかで人々が感じ取っているために、多くの人々が正義などに関する道徳的議論を潜在的に渇望している。確かに、私自身がサンデルの思想に興味を抱くようになったのも、こうした社会背景と言論状況があったように思う。

なお、私の場合、哲学に対してもサンデルの講義や著書を通して関心が再活性化されたが、それもネオリベラリズムによる言論の貧困化ということを感じるようになったことと関連しているようにおもj。



寛容な移民政策のためには言うべきことがたくさんあると思います。……(中略)……。しかし同時に、国内で違いを受け入れて生きることを学ぶことは、文化や社会生活、政治を豊かにし、また、ついでに言えば、非常に面白い一連の料理が生まれるきっかけとなるかもしれません――これは大したことではありませんが。(p.127-128)


料理についてついでに述べられていることから、料理の歴史を知ることは過去の人々の交流の歴史を知ることにつながるということに気付いた。



 ですから、善き生を生きることは、ある意味では、特定のアイデンティティ間の緊張のなかで生きることです。そのアイデンティティとは、私たちを形作り、定義し、また私たちが相互に持っている責任を特徴づけているものです。そして、より普遍的な願望として、人類というひとつのコミュニティを、私たちの行動や関心に対して重要な要求をする存在と見なさなければなりません。ですから、ある意味で、善き生には、私たちのアイデンティティ、忠誠、道徳的責任の普遍的な特徴と、[普遍的ではない]特定の特徴との間の緊張と共に生きることが伴うでしょう。
 これは善き生を生きるための秘訣でも、どうやって正確に生きて選択するべきかについての概要でもありません。しかし、ジレンマに遭遇したり、緊張と共に生きたり、競合するアイデンティティのなかで生きることが失敗ではないと知るのは、ある種の慰めとなりうると思います。これは問題ではなく、人間であるということの一部なのです。(p.135-136)


緊張関係の中で生きることを説いていることは、マックス・ウェーバーを想起させる。

ただ、多くの人にとってこうした緊張関係を引き受けながら生きるというのはかなりの困難を伴うように思われる。リベラルはこういう場合、できるだけ社会の関係を整備することによって緊張を緩和しようとするだろう。サンデルのような考え方の場合はこうした在り方の中にも理想的な生き方がありうるということを示していき、それを教育により社会の常識の中に共有させていくことで負荷を小さくしようとするのではなかろうか。



 現在、大学教育の方法について、FD(ファカルティ・ディベロップメント)ということが強調されています。これまで日本の大学の教師は、教育の方法を身につける場がなかったので、それに対する対策という意味も持っています。
 かつては、大学生は自分の力で学ぶものと考えられていたので、大学教師はあまり授業の方法は工夫しませんでした。ところが、最近の学生は自発的に勉強しなくなっているので、教師が高校までのように親切に教えるように求められているのです。たとえば、「毎回の講義にレジュメを用意して具体的な内容を記しておく。パワーポイントなどを用意して、講義をわかりやすくする」というようなことが大学教員たちに勧められています。
 これは、学生が自発的な学習意欲を持たないことを前提にして、教師がそれに合わせて降りていって教えようとする方法と言うことができるでしょう。問題は、このような方式だけでは、いつまで経っても、学生たちが自発的・能動的に学ぶ力が身につかないということです。学生たちが自発的に学ぶ力をなくしてしまっているのは、前述したように、高校まで○×式の教育に慣れてしまっているからです。受験勉強では、カラフルで丁寧な教材や参考書があり、たとえば予備校や塾の先生方は可能な限り親切に教えてくれますから、そのような教育に慣れているのです。今のファカルティ・ディベロップメントは、そのような教育の方式を大学に持ち込んで、大学教師も高校までのように教えることを求めているという気がします。いわば、大学の高校化が進んでいるのです。
 しかし、これでは大学教育が高校までの勉強のようになってしまい、学生の積極的な学習意欲を引き出すことにはなりません。(p.202-203)


最近は大学に出入りする機会も減ってきたので、大学での教育については最近どのような傾向があるのか、私も実感できなくなってきているが、大学の高校化が進んでおり、それに合わせた教育方法さえもが現れてきているらしい。

なお、「わかりやすさ」を求める風潮は大学のみでなく社会全般に見られる傾向と思われ、これは(グローバル化に伴うネオリベラリズムの政策やリバタリアン的言説の流布と同じ問題だが)短期的に成果を求められる社会になっていることと深くかかわっていると思われる。



遅くとも、大学のレベルになれば、学生たちは、必ずしも正解が確定していない問いに対して、自らの頭で思考し、自発的・能動的に学ぶことを身につけなければなりません。この力を育てるのが、対話型講義なのです。(p.203)


一方的に教師が話をする授業よりは対話型の講義のほうが効果はありそうである。

また、本書で述べられているように、ハーバードの方式は少人数のゼミ(セクション)と大人数の講義がセットになっているというが、少人数のゼミ方式での学習も自発的な学習を促していくに当たっては有効であると思われる。



 近年、「大学改革」が推進されてきましたが、私はその結果、大学はむしろ本来の姿から離れてしまったと思っています。その思想的な理由は、近年の「大学改革」が、ネオ・リベラリズム、言い換えれば政治哲学でいうリバタリアニズムの思想の影響を受けたものだったからです。この思想は、経済的な効率性を重視して民営化や規制緩和を主張しますので、大学においてもそのような「改革」が推進され、国立大学も独立行政法人化することになりました。
 しかし、ここにおいては、本来の大学の理念、教育の理念というものが忘却されていたと思うのです。やはり「大学改革」は、サンデル教授が強調する目的論的思考に基づいて考えれば、大学や教育の本来の「目的」から考えなければならないのではないでしょうか。(p.204-205)


同意見である。



 もっとも、サンデル教授は、アリストテレスのように自然全体の目的を正面から論じるのではなく、人間の実践や社会的制度についての目的を考えて、そこから正義を論じる可能性を提起します。自然全体についての目的を考えると何らかの意味で形而上学的にならざるを得ませんが、人間の実践や社会的制度ならば必ずしも形而上学的にはならずに具体的にそれらの目的について論じることができるからです。(p.224)


目的論と言っても、アリストテレスのように自然全体に目的があると考えるのではなく、人間に関わる問題について、コミュニティにおける共通の目的を設定することを目指そうとする(目的がある、ではなく)という形であれば目的論的な議論を形而上学的にならずに行うことができるわけだ。



リベラリズムがいわば「善なき正義」を主張しているのに対し、サンデル教授は「善ありし正義(善なる正義)」を主張していると言えるでしょう。(p.225)


サンデルのリベラリズム批判を大胆に要約すると、このようになるのだろう。

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