アヴェスターにはこう書いている?
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マイケル・サンデル 『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』

 生の被贈与性(giftedness of life)を承認するということは、われわれが自らの才能や能力の発達・行使のためにどれだけ労力を払ったとしても、それらは完全にはわれわれ自身のおこないに由来してもいなければ、完全にわれわれ自身のものですらないということを承認することである。また、それは、世界のありとあらゆる事柄が、われわれが欲求したり考案したりする可能性のある使用法に対して、必ずしも常に開かれているわけではないということを認めることでもある。(p.30)


この「生の被贈与性」は本書のキーワードである。この考え方を私は立岩真也の『私的所有論』で気づかされたと思っているが、サンデルが本書でこの概念を用いたことで、「コミュニティ」とこの概念の相関について理解が深まりつつあるように思う。



子どもを贈られもの(gift)として理解するということは、子どもをそのあるがままに受けとめるといことであり、われわれによる設計の対象、意志の産物、野心のための道具として受け入れることではない。……(中略)……。子どもの性質は予測不可能であり、親がどれだけ念入りに事を進めようとも、自分の子どもがどんな子どもなのかについて完全に責任をとることはできない。だからこそ、子どもの親であることは、他のどのような人間関係よりも、神学者ウィリアム・F・メイの言う「招かれざるものへの寛大さ」(openness to the unbidden)を教えてくれるのである。(p.49-50)


遺伝子操作などによって産み分けることは、こうした関係を壊してしまうことになるという主張は妥当であると思われる。



確かに多くの線引き問題と同様、治療とエンハンスメントの間の線引きも境界線上ではぼやけてしまう(例えば、歯列矯正や、非常に背の低い子供に対する成長ホルモンの投与は、どちらに属するだろうか)。しかし、だからといって、線引きが重要である理由までもがぼやけてしまうわけではない。(p.54)


線引きが難しい場合、それをあきらめようとする力が働くが、線引きの重要性は線引きが難しいあるいは厳密に行なうのは困難であることによってなくなるわけではない。しばしば忘れられがちなことであると思われる。



メイが指摘するように、親の愛には、受容の愛と変容の愛という二つの側面がある。受容の愛とは子どもの存在を肯定することであり、変容の愛とは子供の福利を探求することである。両者は一方が他方の行き過ぎを是正する関係にある。「愛情も、子どもをただありのままに受容するというところにまで弛んでしまうのなら、あまりにも静観しすぎ」なのである。親には子どもが卓越することを促す義務があることは、間違いない。
 だが、今日のひどく熱心な親は、えてして変容の愛ばかりにとらわれてしまう(p.54)


同感である。



 皮肉なことに、自分自身や子どもの運命に対する責任が増殖するにつれて、自分よりも不幸な人々との連帯の感覚は薄れていく可能性がある。われわれが自らの境遇の偶然的な性質に自覚的であればあるほど、われわれには他人と運命を共有すべき理由が認められるのである。(p.94)


なるほど。



 結局のところ、どうして成功者は、社会のもっとも恵まれない人々に対して、何らかの責務を負わなければならないのか。この問いに対するもっとも説得力のあるひとつの回答は、被贈与性の観念に依拠するところが大きい。成功者に繁栄をもたらした生来の才能は、自分自身のおこないにではなく、遺伝上のめぐり合わせという運のよさに由来している。もしわれわれの遺伝的資質が天賦の才という贈られものにすぎず、われわれが自らの功績を主張できる偉業などではないとすれば、市場経済の中でそうした遺伝的資質を用いることで獲得された報酬のすべてが自分のものだと考えるのは、誤りであり自惚れである。それゆえ、われわれは、自らには何の落ち度もないにもかかわらずわれわれと同等の天賦の才には恵まれなかった人々と、この報酬を分かち合う責務を有しているのである。(p.95-96)


市場に関する道徳的な限界についてサンデルは近著で述べると聞いているが、ここでの指摘はその本でも述べられるのだろう。

ベーシック・インカムに関わる議論でヴァン・パリースが「資産としてのジョブ」ということを述べているというが、サンデルの思想はこの議論と連動できそうに思われる。各自のジョブは贈られものとしての天賦の才を用いて就くことができるものであり、それ自体が個人のものではなく贈られた共有資産であるといったようにすれば説明できるのではないか。


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