アヴェスターにはこう書いている?
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スピノザ 『神学・政治論――聖書の批判と言論の自由――』

17世紀の末頃に至り、本書は世上に殆ど影を見ることが出来なくなった。……(中略)……。かつて無神論の疑ひある者に過ぎなかった彼はここに「無神論者の大王」として広く喧伝された。そしてこれから約一世紀の後、ドイツの詩人や学者を先頭とする世界の識者に依って彼の再評価が行はれ、「無神論者」の代りに「神に酔へる人」を、又「呪われたるスピノザ」の代りに「聖スピノザ」を見出すまで、「神学・政治論」の著者スピノザは、恰も「死せる犬」の如く埋れていなければならなかった。(上p.32-33)


解説より。このスピノザに対する評価の有無及び評価の方向性の変化に反映している社会背景の変化は考察に値する。

宗教権力から政治権力が自由になっていくプロセスが進み、近代的なリベラリズムが成立しつつある時期の政治理論として『神学・政治論』は位置づけることができる。世俗化が十分に進展し、宗教勢力の権力への介入が出来なくなってくると、聖書の批判を通じてリベラルな政治理論を主張するようなやり方は顧みる必要がなくなったため顧みられなくなった。「神に酔える人」という方向でスピノザを肯定的に捉える見方はドイツ観念論などロマン主義的な哲学思想が肯定的に評価されることと並行していると思われる。



 各人の真の幸福・真の福祉は善の享受そのものの中に存するのであって、他の人々は除外して自分だけが善を享受するという栄誉の中に存するのではない。……(中略)……。例えば人間の真の幸福・真の福祉は知恵そのもの、真理の認識そのものの中に存するのであって、自分が他の人々より一層知恵があるとか、他の人々は真の認識を欠いているとかいうことの中には存しない。こうしたことはその人間の知恵を、換言すればその人間の真の幸福を少しも増大することがないからである。だからそうしたことの故に喜ぶ者は他人の不幸を喜んでいるのであり、従って嫉妬深い・悪性の人間であって、真の知恵をも真の生活の平安をも知らないのである。(上p.120-121)


善の享受そのものに幸福はあり、他人との比較などの中にはないという考え方には共感できる。



何故なら、実際に於ては、自分の欲望に引きずられて自己に有益なことを見ることも行うことも出来ない者こそ何より奴隷であり、自己の完全な同意を以て理性の導きのみの下に生活する者こそ自由な人間だからである。命令に依る行動即ち服従は、なるほど或る意味に於ては自由を排除するが、然しそれが直ちに人を奴隷たらしめるのではない。人を奴隷たらしめる所以のものは行動の理由の中に存する。若し行動の目的が行動者自身の利益にではなく命令者の利益にあるとするなら、その行動者は自己に益なき奴隷である。之に反して命令者の福利がでなく全民衆の福利が最高の法則であるところの国家乃至政治にあっては、万事につけて最高権力に服従する者は、自己に益なき奴隷と呼ばるべきではなくて臣民と呼ばるべきである。さればその諸法律が健全な理性の上に建てられている国家は最も自由な国家である。……(中略)……。即ち、奴隷とは命令者の利益をのみ目指す命令に従わねばならぬ者である。子供とは然し自分の利益になることを両親の命令に基づいて行ふ者である。最後に臣民とは公共の利益になること、従って又自分の利益にもなることを最高権力の命令に基づいて行ふ者である。(下p.176-177)


ここで述べられている奴隷と自由人との区別に表れている自由の概念は、カントによる自律としての自由と共通した考え方であると思われる。


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