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アヴェスターにはこう書いている?
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バートランド・ラッセル 『社会改造の諸原理』(その4)

国民は、自分の方が勝てると信じない限り、戦争熱にうかされることはまずないといっていい。(p.59)



確かにラッセルの言うとおりだろう。現在の日本において、軍備増強論が根強いのは、まだ近隣諸国よりも日本の方が経済力があり、軍事力も強力なものでありうると信じているということも、その背景要因としてあると思われる。実際、他国の侵略からの防衛という観点から見れば、現在の日本の防衛力は十分である。

しかし、今後、20年ほどの間で中国の経済力は確実に日本を凌駕するだろう。そのときにも彼らは戦力増強論を唱えるだろうか?むしろ、不用意に敵対関係を煽らないようにしながら、言論として相手国につけいる隙を与えないよう、戦争責任問題などを早期に決着しておく方が、長期的には日本という領域の安全は確保できるように思われる。

国民国家への献身ということが、現代のおそらくもっとも深く、またもっともひろがった宗教なのである。古代の諸宗教と同様に、現代のその宗教もまたそれ自身、迫害とか敵対者のせん滅、あおざめた英雄的残虐性を要求している。またそれは、古代諸宗教と同じように、高貴で、原始的で、残忍で、狂気じみている。過去と同様に現在でも、伝統の重みによって私人の心情を慈悲心に抗して盗み、人々の知性を真理に抗して盗んでいる。世界がもし救われるべきだとすれば、人々は次のことを学ばねばならない。すなわち、残酷となることなしに高貴であり、信念に満ちていながら真理には心を開き続け、挫折させようとする者たちを憎悪することなしに、偉大な目的によって鼓舞される、という態度をである。(p.71、強調は引用者)



カルト宗教になぞらえて言えば、現在の日本の世論は、この宗教の勧誘を受けており、そのマインドコントロールのためのセミナーに参加しているが、まだ、その教祖や宗教であることについては十分知らされていない、といった状況になぞらえられる。今後、10年か20年の間に、そうした点が徐々に明らかになっていくだろうが、そうした秘密が明かされる頃には、既にその「カルト宗教」への拒否反応は取り除かれてしまっているだろう。そして、完全な信者が誕生する…。

国家や教会、またそれらに奉仕する巨大な制度が教育を営むのは、崇敬の念からではない。教育において考慮されているのは、およそ少年や少女、若い男女のことそれ自体ではなく、ほとんどつねに、なんらかの形における現存秩序をいかに維持するか、ということなのである。(p.94、強調は引用者)



これも妥当な指摘である。特に、今年に変えられてしまった教育基本法などを見れば、それが教育を受ける側のためというより、「愛国的な臣民」を作り上げるという目的が明らかであり、時の政治権力者たちに都合のよい人間を作り出そうとする意図が明確にでている(「不当な支配」の意味の反転により)。むしろ、単に現存秩序を維持するというよりも、現存の支配構造をより強固なものにしようとしているのが、現在の日本で行われつつある政策である。

われわれは明日に期待をつなぐべきではなく、現在、ごく少数の者によって考えられていることを、多数の者の共通の考えにさする時代を、期待しなければならないのだ。(p.141)


その通りであると思う。90年の時とU.K.と日本という地域の違いを超えて、このことは妥当する。

 任意の与えられた時期に有用でありうるような政治理論を追求するに当たって、必要なことはユートピアの案出ではなくて、運動の最良の方向を見出すことである。(p.142-143)


憲法9条の尊さを訴える側の議論に足りないのは、まさにこの点である。平和主義者は、どのような外交関係やどのような地域戦略・世界戦略が望まれるのか、ということをもっと議論し、発信しなければならない。

人々が自由に高貴に生きることを阻んでいるのは、他の何物にもまして、所有物に対する執着なのである。国家と財産とは、所有欲の巨大な具現化なのだ。この理由からして、国家と財産は生命力に反し、また戦争を生み出すのである。所有とは、なんらかの良きものを獲得するか保持すること、そしてそのことによって、他人がそのものを享受することが阻止される、という事態を意味している。創造とは、世界にある良きものをもたらすこと、そしてさもなければ誰も享受しえない良きものが、もたらされることを意味している。(p.147、強調は引用者)



こうした所有を巡る議論を読むと、私は常に立岩真也の『私的所有論』を想起する。それに啓発された私の考えから見ても、ラッセルの所有に対する考え方は概ね同意できるものだ。特に所有には他者を排除する面がある点についての指摘は重要である。それゆえ、争いに至る可能性があるのだから。

現在および歴史上の領土問題を見ればそれがよくわかる。昔から領土の問題は戦争の種であった。現在、日本は「美しい国」を目指すのならば、そして、それが「自由で高貴な」ものであろうとしているのならば、係争中の領土を手放してみたらどうだ?相手に恩恵を与えてやってはどうだ?と言ってみたくなる。というのは、「美しい国」や「誇りの持てる日本」を標榜するような人たちこそ、領土問題に関しては不寛容であり、「意地汚い、卑しい」発想になっていると思うからである。

私の考えとしては、中国、韓国、ロシアとの間の領土問題に関しては、すべてが他国のものだとは思っていない。幾つかの領土は日本が国際法に則って領有してよいものだろうと予想している。(詳細は分からない点が多いが。)しかし、やたらと「国益」なる意味不明な言葉を持ち出しつつ、「これは俺のものだ」と主張するような姿は「みっともない」ということを、彼らにはちょっと言ってみたくなったりするのである。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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