アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

リュシアン・フェーヴル、アンリ=ジャン・マルタン 『書物の出現 下』

 1460-1470年。印刷術が普及し始め、書物の取引が組織化される。金属加工法が知られていた富裕な都市を抱え、工房の開設のために出資出来る金持ちの商人が多くいた鉱山の国ドイツにおいてまず、こうした動きが見られる。(p.34-35)


文化的にも政治的にも経済的にもヨーロッパの中でそれほど優位な位置にはなかったと思われるドイツの地域で印刷術が普及した要因として、金属の産出や加工技術にも一つの要因があったらしい。



工房はそれまで南ドイツに集中しており、北ドイツの工房は1520年頃までほとんど活動していなかった。ところが1520年から1540年にかけて北ドイツの工房は厖大な数の書物を生産し、その後1540年から1575年までの間一時衰退したかに見えたが、世紀末には再び活況を呈するに至る。つまり、ルターと宗教改革の影響によって、この時期に、書物生産に見られた北ドイツにたいする南ドイツの優位が揺らぎ始めるのである。(p.54)


地中海世界から大西洋へと次第に経済的交易の活発な地域が移っていくこととも対応しているように思われる。ある意味では、宗教改革自体がこうした経済的なシフトに遠因を持つある種の政治闘争であり、ローマ(南)への抵抗という側面を持っていたのではないだろうか。書物生産という分野でもこれと並行したシフトが見られるということか。



 つぎに1570年頃から、カトリック・ルネサンスの影響が現われ始め、出版業の大中心地の分布図を再び一変させる。典礼書のテクストを統一し、それらをローマの慣習に合わせるために改訂することがトリエント公会議で決定。その結果、カトリック系の出版業の復興が促されるのである。教会またはカトリック諸侯の支援を受けていた大出版業者は、これらの書物の独占出版権を手に入れ、事業を著しく発展させる。(p.55)


宗教と政治、経済、言論(の自由や制限)は深くかかわっていることがわかる。



実を言って、アメリカ大陸の印刷工房はすべて教会当局によって設けられたのであり、初めはインディオにたいする福音伝道に必要な書物を刷ることと、形成されつつあった本国人居留地に不可欠の学習書、そしてとくに信仰書を供給することだけを目的としていたのである。確固たる基盤の上に作られたというか、いずれにしても安定していた、メキシコ・シティの最初の工房の歴史が、このことをよく示している。(p.82)


出版という産業にとって教会という教権制的支配機構は大きなパトロンだったと言える。



要するに、大市の発展は宗教改革、その結果である北ドイツにおけるプロテスタント系印刷工房の増加、そして東ヨーロッパでのプロイセン国家の発展とによって助けられたのである。1600年には、そこに出展される書物の目録が刊行され始め、この時期からライプツィヒの大市はフランクフルトの大市と肩を並べるに至り、そして三十年戦争ののちには、ドイツの刊行物の大市場となっていた。
 17世紀の、ライプツィヒの太市の発展とフランクフルトの大市の衰退は、書物取引の変遷においてきわめて重要な段階を画している。フランクフルトは、すでに見たようにヨーロッパのすべての大書籍商の落ち合う場所であったが、これにたいしてライプツィヒの大市に集まったのは主にドイツ人書籍商であり、その他はロシア人、ポーランド人、オランダ人を数える程度であった。したがって1630~1640年頃のライプツィヒの大市の繁栄は、出版業の分散化の始まりを意味している。ラテン語の書物の出版が次第に少なくなり、代わって各国語で書かれたテクストの比重が高まるのと同時に、ヨーロッパでの書物取引は細分化することになる。(p.132)


北ドイツの発展に関しては既に引用した文章でも指摘されいてる通り。これとライプツィヒの大市の発展が結びついており、その内容はラテン語からドイツ語(各国語)への転換を伴っていた。ローマ・カトリックはラテン語を使用することに有利な立場にあるから、各国語の出版が増えることは之に対抗する意味もあったのかもしれない。



 すでに見たように、ごく早期から大出版業者は取引先のいない都市に<代理販売人>を送り込む習慣を持っていた。代理販売人は都市にしばしば現われては書物を勧めていたが、やがて大都市に出版業を兼ねない書籍商が来て開業するようになると、彼らの活動は縮小する。ところがその一方で、書籍商がひとりとして店を出せなかった小都市や部落、農村地帯に、15世紀から宗教画や、しばしば小間物とともに書物を売り歩く行商人が現われ、ほとんど教養のない人びとを相手に、とくに暦や占書、『羊飼いの暦』、綴字練習帳などの小冊子を売っていた。宗教改革者の思想が広まると、行商人の数は増大し、店舗を構えている書籍商よりも容易に治安当局の目をかすめることが出来たので、彼らは新思想の最も活動的な普及者の中に数えられた。わけてもドイツで宗教改革が始まった頃、カトリック側からの攻撃文書をはじめ、とくに聖職者の権威を揺さぶる目的で書かれた反ローマ・反教皇権のプロテスタント側からの攻撃文書をいたるところでばらまき、著しく重要な役割を演じた。ジュネーヴで印刷された文書をフランス国内で配ることを1540~1550年から引き受けたのも、彼らであった。こうして16世紀、ことに禁じられていた誹謗・宣伝文書を流布させるための、多かれ少なかれ秘密の取引網がまずドイツに、続いてフランスとヨーロッパ全土に形成される。(p.140-141)


各国語による出版は、文書が流布する社会層とも関連していた。

また、定まった拠点が見えにくい行商人による新思想の普及活動は、ゲリラ戦的な抵抗であり、現代のブログやツイッターなどによる抵抗運動とも似たところがある。



 しかもフランスの出版業がやがて不況を迎え弱体化すると、オランダの偽版製作者と禁書の出版者が、この隙を突いた。彼らの書物をフランス国内は無論、時にはユグノー〔フランスの新教徒〕が囚われている牢の中にまで持ち込むことも、朝飯前。あちこちに多かれ少なかれ秘密の「取引網」が形成され、外国から届く梱包を監視する任を負わされた同業組合の理事も大方、共犯者であり、彼らが手厳しい態度に出るのは、実際上、強制されたときだけであった。小さくて隠しやすい品である書物の闇取引を、この時代に一体どうやって禁じ得たであろうか。国王による厳格な検閲の最大の結果はしたがって、フランスを取り巻く国境に近いところに、偽版本と禁書を危険な目に遇うことなく刊行する一連の印刷工房の開設を促進したことである。フィロゾーフの主要な著書が印刷されたのも、まさしくここであった。(p.156-157)


ここで書かれていることと関連がありそうなこととしては、例えば、デカルトのような人がオランダに移住したのも、オランダの方が言論環境が良かったことも要因ではなかろうか、ということが思い起こされた。



つまり、今日の私たちの観点からみて真に科学的と映じる著作よりも、これら俗流の書物のほうが好まれていたのである。……(中略)……。印刷の対象となる著作の数が年次を追って増加しつつあったとはいえ、その大多数は科学的な観点からみて興味を惹くものではなく、例えば人気を集めたのは実際的な占星術の書物であった。こうした次第であるから、中世地理書の中でもっとも興味深いマルコ・ポーロの『東方見聞録』が1500年以前にはたった四度しか版を重ねず、嘘八百をならべたてるジャン・ド・マンドヴィルの『旅行記』のような代物のほうが較べものにならぬほどの好評を博したとしても、いっこう驚くにはあたらない。少なくとも私たちの観点からするなら、批判精神が完全に欠如していたのである。しかし、結局のところ、どの時代でも事情は変わらないのではなかろうか。……(中略)……。
 こうして、理論科学の知識の展開に関して、印刷術はほとんど何ひとつ寄与しなかったように思われる。反対に、印刷術が役立ったようにみえるのは、科学技術の問題に大衆の注意を集めることであった。(p.180-182)


批判精神が欠如しているというのは、確かに現代でも変わりないところがある。テレビやネットで流行する言論のほとんどはこうしたものだろう。



 イタリアで産声を上げた翻訳ブームは、フランスの地において成長著しいものがあった。フランス歴代諸王は、翻訳を奨励し、国内統一策の実現のためにもラテン語に代るフランス語の使用を推し進めようと努めた。事実、1539年にはヴィレル=コトレの王令が発布されて、司法上の手続きにあたってはフランス語で処理することが義務付けられた。……(中略)……。だが、正確を期すなら、翻訳活動が隆盛をむかえるのはマルグリット・ド・ナヴァールの弟〔フランソワ一世〕が王位に即いてから後のことであった。この時以降、王命によって翻訳される作品の数は増大し、それは時とすると非常な成功をもおさめた。……(中略)……。
 こうしてフランスでは16世紀前半から古典古代作家の翻訳書が増加してゆくのであるが、ひるがえって出版業者の立場から考えるなら、統一もはたされ人口も多く経済も豊かなフランスであったからこそ、翻訳を出版しても十分採算がとれるだけの読者を確実に見込めたのである。それにひきかえスペインやイギリスで翻訳活動の歩みが遅々としていたとしても、いっこう驚くにはあたらない。(p.212-214)


イタリアでの12世紀ルネサンスを経て、ルネサンス期にはフランスでも翻訳が活発に行われたようだ。

人工も多く経済的にも豊かなフランスで翻訳出版が採算が取れたというのは、戦後の日本とも共通すると思われる。おそらく、今後は日本の出版業界では翻訳ものは当時と比べて減っていくのではないだろうか。



各国ごとに国語文学が興隆しつつあったものの、あらゆる地域にあらわれたこの翻訳作品のおかげで、ヨーロッパ文明は均質性を保ったのであった。のみならず、翻訳のほうの出版数が原語における出版数をしのぐ場合さえしばしば見られた。……(中略)……。共通語たるラテン語が衰退し、各国で国民文学が発展し、その上さらに政治・宗教両面にわたる検閲制度が厳しくなることも手伝って、とうとう書物市場が国ごとに閉鎖的となってしまい、そしてヨーロッパ各国の間に文字通りの隔壁が設けられてしまうのは――実は、17世紀に入ってからのことであったのだ。(p.217-218)


いわゆる「近代」と呼ばれる時代の始まりとこの閉鎖的市場の形成とほぼ同じ時期である。「ヨーロッパ文明」なるものの均質性は、ラテン語とそれに取って代わった翻訳により古典や知識や伝統や流行作品などの共有によるところがある。

おそらく同様に中東イスラーム世界でもアラビア語のフスハーが同じように広い地域に共有する知識や伝統を形成していたと思われる。



 以上のように、スコラ学の伝統に平行してもう一つ別の、すなわち古典学の伝統が生れた。ところで、それと同時に印刷術は、大衆に向けて国語で書かれた或るジャンルの書物、すなわち概説書・処方箋集・占書・歴書の出現をうながしもした。だが、その反面で、印刷業者は読者の限定されたラテン語の科学書を上梓することにためらいを見せる。その結果、科学の分野では、他のどの分野にもまして長い間、書物を検索しようとする場合には手写本に頼らざるを得なかったらしい。(p.222-223)


マスメディアはハイカルチャーよりもサブカルチャーに親和的であるのはどの時代も変わらないということか。



 じっさい、印刷術が最も大きな貢献をなしたのは、博物学や解剖学など記述的と呼ぶことができるような科学の分野においてであったろう。そして、それは図版の働きに負うていたのである。(p.224)


版画は現在では芸術作品のように鑑賞されたりするが、科学的な資料としての意味が大きかったというのは興味深い。現在の写真の代わりを務めていたと言えよう。



 さらに、どの国々に対して注意が向けられがちであったか調べるなら、とても示唆に富む報告が得られる。フランス語で出版された地理文献の大部分は、今日我々が近東と呼ぶ地域を対象としているのであった。フランス人の好奇心を独占したかに見えるトルコ人に関する書物の量は、アメリカに関するものの二倍はある。次いで西インド諸島とポルトガルの制服を扱う書物が多数。その後に、中国やタタールといったアジア諸国および聖地を記述したほぼ同数の書物が位置している(エルサレム旅行記などは特に多数ある)。そしてアメリカを扱った書物は第四位にしか見出せないのであり、アフリカや南の諸国はほとんど好奇心を惹起しなかったように見える。結論として、16世紀のフランス人はその読書傾向から見て、遠い地域よりは近い地域に、それまで未知であった世界よりは昔からすでに知られていた世界に、より一層の興味を抱いていたのであり、またその視線は西方よりは東方に向けられていたのであった。ルネサンス期を通じて、フランス人の地平は確かに広がったかも知れない。しかしその世界像は、相変らず歪んで映っていたようである。(p.233-234)


16世紀にはオスマン帝国が西に勢力を広げていた時代ではなかっただろうか。そのあたりを考えても、直近に迫る利害関係があるのだから、トルコへの関心が高くて当然である。

また、当時の中東とアメリカなどの経済的な水準の相違などを考えても、この偏りは容易に了解できるように思われる。



おそらく、書物というものがそれ自体で誰かを説得し得たということは、かつて一度もなかったのである。しかし、説得することはないにせよ、書物とは自分の確信についての手で触れることのできる証しなのであり、この書物を手にすることにより、確信は具体的な形をとる。書物は、すでに説得された者たちに対して一層の根拠を与え、彼らにその信仰を深めかつ明確化する手助けをし、彼らが議論において勝利を占め、逡巡する相手を折伏するための基本的知識を与える。おそらくこうした理由がからんで、16世紀に印刷術が、プロテスタンティズムの進展にとって本質的な役割を演じることになったのだろう。(p.247-248)


大変興味深い指摘である。反対者を説得するのではなく、すでに確信を持っている者の確信を強めるものとして機能するという傾向は確かにありそうである。



 宗教改革の生成に寄与した印刷術は、また同様に、諸国の国語の形成とその固定化においても本質的な役割をはたした。16世紀の初頭までは、西ヨーロッパ諸国においてさまざまな時期に俗語が書き言葉としてあらわれ、共通語として役立てられ、話し言葉の変化に忠実に従いながら変化を続けた。したがって、たとえば12世紀に武勲詩の中で用いられたフランス語が、15世紀にフランソワ・ヴィヨンが書くのに用いたフランス語と根本的に相違する、というようなことが起る。しかし、16世紀以降は、事情はもはや同じではない。17世紀には、ほぼいたる所で諸国の国語は結晶化されている。と同時に、中世に使われていた書き言葉のあるものはもはや書かれなくなるか、あるいは書かれたとしてもそれは徐々に例外的なことになる。アイルランド語やプロヴァンサル語がそのよい例である。そしてラテン語も少しずつ用いられなくなり、死後と化す。(p.307)


言語の固定化に印刷術が影響した。



 16世紀は、古典古代文化の再生の時代であると同時に、ラテン語が地歩を失い始めた時代である。この傾向は、特に1530年ごろから明白となる。実際、驚くにはあたらないのであって、すでに見てきた通り、書籍商の顧客は少しずつ俗界の人間によって占められ、時にはそれが女性であったり商人であったりする。これらの人々の多くは、ほとんどラテン語には縁がないのであって、だからこそ宗教改革者たちは断固として近代国語を用いる。ユマニストたちも、広い範囲にわたって読者を得ようとして、これらの国語を援用することをいとわない。(p.309)


社会の変動が使用言語の変動につながっている。



スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/807-90d407dd
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)