アヴェスターにはこう書いている?
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『日本地理体系 臺灣篇』

台北市は現今台湾の政治中心都市であるが、もとは台南市が中心であったのである。我が国が支配するとすれば内地に近い北部、暑熱が幾分緩和されて内地人には凌ぎよい北部が政圏心としてより価値づけられることになる。(p.10)


日本が統治を開始してからしばらくの期間は各地で現地の人々の抵抗があったことからも、基隆と台北が重要となる理由があったのだろう。

本書は1930年に出版された本(復刻版)だが、この当時の日本の為政者側の関心がどのようなものであったかが伺い知れて興味深い。なお、本書は古い漢字や仮名遣いで書かれているが、変換が面倒であることや読み安さなどを考慮し、このブログでは現在の表記に直している。



 新興の基隆港は台北の外港たるは勿論、縦貫鉄道と内台、対支及対米航路との連絡地点に当り全島の総門戸として任務を果たしつつある壮年期の港市である。港は丘陵及び島を以って囲まれ水深は優に一万噸級の汽船数隻を岸壁に横着けするの余裕を持っている。勿論築港上人工は加えたけれども、南方の高雄港に比しても、自然的地形が優秀で、自然的位置の優秀と相俟って他の追随を許さざる全島一の良港である。かかる良港を持ち得た台湾は政治、経済上無上の強味がある。
 台北盆地及これにつづく新竹州の台地は地形、気候の関係から茶の良産地で、これ等の紅茶は内地へ、烏龍茶は米国へ、包種茶は南洋へそれぞれそれ等地方の住民の味覚に適したものを基隆港から輸出して茶の分業的商圏を確立している。(p.10)


基隆の重要性を強調するとともに、台湾の経済戦略的な重要性をも指摘しているあたりに、当時の地理学の性格の一面、すなわち支配者の御用学問的なものとしての性格が表れているように思われる。

また、茶の分布の他に、種類ごとの輸出先の分業があったというのも他の本でも読んだことはあるが、興味深いところではある。なお、近年では台湾茶については、当時のような北部周辺だけでなく、中部の高山で栽培された茶への関心が高まっているように思われる。



 産業中最も盛なのは工業で、砂糖が産額の殆ど半を占め、酒精之に次ぎ、特殊なものに、鳳梨缶詰がある。農業は風土に恵まれて、米穀最も多く、甘蔗甘藷蔬菜等がこれにつぎ、鳳梨は、その六割が缶詰製造に消費される。……(中略)……。この外製糖社線に鳳山、屏東を中心として局部的に樹液状に発達せる鉄道、軌道がある。自動車も亦各地間に往来し、南方恒春、鵝鑾鼻方面に至るものもある。海上の船通も便で、東西沿岸線の外に、高雄港が、我が帝国南端の重要港で、支那南洋方面とも密接な関係を有し、其の接衝地たる故に、内地方面へのみでなく、天津広東、南洋にも航路があって、船舶、旅行者等の出入頻繁の度を年々加えて来た。それ故、自ら取引も盛で、高雄港の如き、実に基隆と共に本当屈指の商港である。……(中略)……。旗山は九曲堂から製糖社線で二八粁の山地にある小邑で、其の観恰も埔里街を連想せしむるもので、風光の妙他に比すべきものがない。(p.148)


当時の高雄州に関する叙述。

北部では茶業が盛んだったのに対し、南部では製糖業が主要な産業になっていたことがわかる。製糖、酒造、パイナップルの缶詰のいずれも農業と関連する工業であることが当時の台湾の産業の特徴を反映している。

ちなみに、粁は「キロメートル」。

旗山という小さな町についての記述を引用したのは、私が近々訪問する予定だからである。当時の老街が残っているが、北部の町のものと相違があるかどうか気になるところである。



積出貨物の主なものは砂糖、米、酒精、セメント、芭蕉であり、陸揚貨物は豆粕、硫安、其他の肥料、●材、木材等である。(p.154)

新興高雄市の建設もまた勿論領台後に行われたのであって、旧市街が発達していなかったことは自由な都市計画によって近代的都市を建設するに極めて便利であった。(p.155)

高雄は帝国水産南進の策源地であり、その活躍は近年非常なる進展を呈して来た。大型漁船の進歩と冷蔵輸送の発達とは、漁場の著しき増大を来し、従来台湾海峡の西南部に位する所謂「フォルモサバンク」を以て主なる漁場とせしも、現在にては南方バッシー海峡を越え遠くルソン西岸、マニラ近海に及んで居る。(p.155)


以上はいずれも高雄港に関する写真に付されたキャプションの一部である。なお、●材となっているのは、復刻出版のせいか印刷が不明瞭で読み取れなかった箇所。

近代的都市を建設するに極めて便利であったとの文言や帝国水産南進の策源地などという叙述に、「統治のための学」としての性格が見て取れる。



旗山街 楠梓仙渓に沿う台湾南部の一邑名。人口一万七千。旗山郡役所、郵便局等がある。この地はもと南方蕃界の関門として、開墾及び製糖事業の為めに発達したもので、蕃署蕉と称していたが近年今の名に改められた。(p.162)


旗山の歴史。台湾の沿岸から少し山側に入った地にはこれと類する展開をしていった町がしばしばあるように思われる。



また其位置が温熱両帯に跨り、且つ地形が垂直的肢節に富んでいる台湾に植物の種類が多いのは当然であるが、内地に於て供給することの出来ない熱帯的有用植物に富むことは、特に我国民経済にとって重要な事項である。甘蔗、樟、及び芭蕉(バナナ)、鳳梨(パイナップル)などの果実は我が領土中台湾のみが供給し得る特産品であって、これらの資源が我が国民経済の独立に少なからぬ貢献をしていることは人のよく知るところであり、我領土としての台湾の使命も今日まで主としてここにあったようである。(p.262)


ここは「台湾の人文地理」という章の冒頭付近の文章である。自然地理よりも人文地理という分野の方が、より支配の学としての性格が濃厚である。



 台湾の産業は農業本位である。領台三十有五年此の間に於ける台湾産業界の発展は驚嘆に値する。……(中略)……殊に過去十年に亙り我国経済界を襲った深刻な不況は台湾経済界に相当の圧迫を加えたとはいえ、従来農業を主とするの故を以て内地商業中心地の如き打撃なく、昭和二年の金融界大混乱に際しても無事に突破することを得たのである。
 台湾産業界を部分別に見るに昭和三年に於ける農産価額は47%に当り工産之に亜ぎ43%、林産4%、鉱産3%、水産3%の割合となっている。而して工産中には農産加工品に属する砂糖及び茶がその七割を占め純然たる工業は僅かに12%に過ぎない。(p.265)


当時の台湾の産業の状況が簡潔にまとめられている箇所。農業を中心としており、一次産業と二次産業の中間あたりの産業構造になっていたこともあってか、金融の混乱による打撃は小さくて済んだらしい。

また、農業と農産加工業が経済の大部分を占めていたことがわかる。



 最初に支那民族が落ち着いたのは、勿論西海岸の河口、或は沙洲に囲まれた入江などの船着場であって、彼等はこれらの地を根拠として蕃人と交易し闘争し或は農耕に従事したのである。……(中略)……。これを便宜上私は第一線の都邑とする。基隆、淡水、後龍、梧棲、鹿港、東石、安平、高雄等の西海岸の港町がこれである。
 開拓が一層進んで、海岸から遠く隔った奥地にも本島人農民の集落が生れ、蕃人は殆ど山地に逃げ込み、或は同化されて、広い西部の平原が大部分、支那民族の手に帰する頃になると、第一線の都邑と奥地の農村の間が、当時の交通状態としては遠隔に過ぎるようになり、ここに農村の中心都邑として、奥地にも都邑が発達することになる。……(中略)……。従って奥地の中心都邑は南北の交通線に沿い、一連の都市線をなしていることになるから、これを第二線の都邑と称することが出来る。台北、桃園、新竹、苗栗、台中、彰化、員林、北斗、嘉義、鳳山等の諸都邑がこれである。
 以上第一線及び第二線の都邑の外に、台湾では尚第三線の都邑を指摘することができる。それは蕃界嶺の渓谷の出口に位置する諸都邑であって、所謂谷口町がこれである。平地の開拓が略ぼ完成し、蕃地渓谷の富源が平地住民の興味を惹くようになり、此渓谷の物資を集め且つこれに文明の利器を供給する市場町として発達したのがこれらの諸邑である。新店、三峡、大渓、南庄、二水、玉井、旗山其他の小邑が此第三線の都邑であって、これらの都邑が作る都邑線は勿論第一線及び第二線の都邑線のように、直線に近い一線ではないが、大体に於て一連の都邑線と称することができる。
 上に述べた三線の都邑のうち、第一線の諸都邑は今日殆ど其重要性を失ってしまっている。……(中略)……。但し基隆、高雄の両港市はこれが例外であって、港湾が近代の港湾としての諸条件を具備していたが為め、今は台湾の二大開港場として、西岸諸往昔の繁栄を奪い近時一層其重要性を加えている。
 第一線の諸港市が衰微し、基隆、高雄の両港が繁栄するにつれて、益益其重要性を発揮したのは第二線の諸邑である。……(中略)……。第三線の諸邑は、其背後地が山間の渓谷に限られて居る関係上、大都市に発達することは到底出来ないのであるが、蕃界の開発が進むに連れて次第に其重要性を増して来ている。(p.305-308)


本書の中では比較的珍しく、概念的というか社会学的な一般化をしている箇所だが、台湾の諸都市の展開を概観するには有用な図式を提供しているように思われ、当時の状況が今日の状況にもつながっているように見えるため、益々興味深い。

第一線の港町は本書の指摘のとおり、基隆と高雄を除くと基本的に寂れる傾向にある古い町が多い。ただ、安平は現在の台南市にあり、台南は現在も比較的大きな都市ではあるが、かつては台湾の中心都市であったことを考えるとやはり衰退の方向ないし相対的な地位が低下していることは疑いない。

第二線の「農村の中心都邑」は、この時代にも重要性を増していることが指摘されているが、現在でも比較的栄えた大きな町が多いようだ。縦貫鉄道が通っている町が多いことからも、流通の要衝となりえたことが、それを支えてきた要因の一つであるように思われる。

第三線の「蕃界嶺の渓谷の出口に位置する諸都邑」は平地と山地の境界あたりに位置する諸都市で、この時代には重要性を増していると記載されているが、一時それなりの繁栄を享受した後、やや廃れてしまった町が多いように思われる。現在、これらの都市には三峡、大渓や旗山など比較的古い街並みが残っているところがあるが、これも経済発展からやや取り残されるかのようにしていたことの反映であると思われ、これらの歴史的な遺産が現在では観光資源となっている。こうしていわば取り残されたことが却って地域の歴史的な資源を保存することに繋がったというのは、北海道の小樽などとも共通するパターンであろう。



 然るに咸豊九年(1859年)我安政六年我神奈川、長崎、函館で貿易を許したと同年に於て、淡水港を開き、英仏両国との通商貿易を許し、次で同治元年(1862年)には基隆、打狗の二港を開いた。斯くて南部に糖業起り、北部に茶業始まり、順次特有作物は栽培せられ、産業漸く発展するようになった。然し土木交通は之に伴うの程度に至らなかった。(p.363)


淡水の開港が日本の横浜、長崎、函館の開港と同時期というのはこれらが独立した個別の問題ではなく、一連の問題だからであろう。また、基隆と淡水の開港により、北部の茶業が輸出による発展へと道が開かれ、高雄の開港により糖業の発展の流通上の基礎ができたということらしい。

台湾の産業は農業本位であると本書では指摘されているが、このように世界的な市場統合の時代において、台湾の農業も注意してみれば商品作物の生産がかなりの割合を占めていたこともそうした背景があるからだと思われる。そして、近代的な港湾の存在がその存立を支える一つの要因であった。

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