アヴェスターにはこう書いている?
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荻野純一、笠原美香 文、伊東ひさし、中島賢一 写真、旅名人編集室編 『高雄と台湾最南端 歴史遺産からリゾートまで』

 漁人媽頭は現在、地元の若者のデートスポットとなっていて、たくさんのレストランやパブがテナントとして出店している。旧倉庫の前の岸壁も遊歩道になっていてオープンエアの店がある。夜風にあたりながらの一杯はまた格別であった。
 この一帯も日本統治時代は高雄の「心臓部」であった。近代的な埠頭の脇にたくさんの倉庫が並び、港には大型船が出入りしていた。1907年(明治40年)には高雄港は、台湾全体の輸出入の約半分を扱うまでになっていた。
 当時の高雄港から輸出された主な商品は米、砂糖、バナナ、パイナップルなどで、台湾総督府は台湾北部では米作、南部ではサトウキビを増産する、いわゆる「南糖、北米」政策を採っていたから、高雄港では砂糖の輸出が大きなウェートを占めていた。当然ながら砂糖の倉庫もかなりのスペースを占めていた。
 倉庫が並ぶ港湾地区の北側は「塩埕埔」と呼ばれていた。高雄港駅の東側から愛河までの一角で、現在の塩埕区にあたる。「哈瑪星」に続き開発された街区であり、いわば「旧市街の中の新市街」。こちらもほぼ碁盤の目状にきちんと道路が整備されて町造りが進められた。現在もその面影は残っている。西の「哈瑪星」と比べると道幅、道路と道路の間隔ともに広がっているのは都市開発の時期がやや遅かったため。かつては高雄でもっともにぎやかな地区であった。ただ、新市街の誕生とともに廃れていた
 この一角に堀江商場がある。七賢三路と五福四路が交差する場所で、戦後の台湾で一時期、外国製品が入手できる場所として一世を風靡したショッピング街があった。堀江は字のことく、もともとは運河があった場所である。高度成長を迎える以前の日本と同様に、台湾でも国際収支の悪化を防ぐために外国製品の輸入を極端に抑えていた。台湾最大の国際貿易港があった高雄には外国の船員が数多く出入りしていたから、彼らを通じて誰もが欲しがる外国製品が横流しされ、この堀江商場で売りさばかれていた。いわば「規制が生んだ繁栄」であった。(p.27-28)


高雄の歴史的展開として開発が西から進んだことがわかる。哈瑪星(浜線)から塩埕埔そして新市街へという流れが見て取れる。

台湾の産業政策についての「南糖、北米」政策というのも参考になった。南で作った砂糖を高雄港から輸出して外貨を稼ぎ、北でつくった米を基隆港から「日本本土」に移出していたのだろうか?基隆についてはまだ調べていないので不明。今度、チェックしてみたい。

堀江商場が昔運河だったというのは興味深い。



 新市街は1940年代に整備された地域であり、特に第二次世界大戦後になって一段と開発が進んだ地域である。現在の高雄の繁華街も、この地域に集まっている。この地域の主要な通り名に興味深い“法則”がある。一心路から始まり、二聖路、三多路、四維路、五福路、六合路、七賢路、八徳路、九如路、十全路と並ぶ。しかも、南の一心路から数字が増えるごとに北の通りとなっていく。八徳路と九如路の間に高雄駅が挟まれている。(p.38)


通りの名前の規則性は、町の地理的な位置関係をつかむときに役立ちそうだ。40年代になって新市街が開発されたということは裏を返せば、30年代までは西側の比較的狭い地域が高雄の中心だったことを意味している。その後の急速な発展が伺えるように思われる。



 日本全体が戦争への道へと走り始めた1930年代後半になると、台湾経済もその影響を受け始める。農産物の加工業に加えて、軍需に直結した重化学工業の工場が台湾でも次々と建設されるようになった。その筆頭格が良港を備えた高雄であった。
 高雄港の第二期工事が1937年(昭和12年)に終わると、高雄には石油精製所、肥料工場、製鉄所、造船所、アルミ産業などの工場が誕生した。太平洋戦争末期には軍需色を強めた高雄の工業地帯はアメリカ軍の攻撃対象となり、これらの重工業工場は空爆により軒並み破壊された。しかし、当時のインフラや、高雄の人々が工場を通じて引き継いだ人的資源が、後の重工業復活に大きく寄与したことは間違いない。こうした重工業の拠点は現在も高雄市南部に広がっている。(p.45)


こうした産業の変化が40年代の新市街の整備へとつながっていくのではないかと推測される。

ちなみに、高速鉄道(台湾新幹線)の開通により、近年は高速鉄道の駅がある北部の開発が進んでいるという。



 砂糖は現在でも重要な生活必需品である。しかし、明治時代の砂糖は、現在では想像もつかないほど貴重な商品であった。この時代の砂糖は「消費量が国の文化レベルを示すバロメーター」であった。「砂糖は成人病の元凶」のように見なされている現代とは大違いである。(p.88)



詳しいことは忘れたが、『砂糖の世界史』でもこれに類することが述べられていたように思う。



 一方で国内の製糖業の方は壊滅状態になっていた。江戸時代には日本にもまがりなりにも製糖業は存在していた。しかし、日本政府が幕末以降に欧米各国と結んだ国際条約で砂糖の関税を撤廃してしまっていたために、安い輸入砂糖が流入した。このため国内需要が急激に増えているにもかかわらず国内の製糖業者は次々と潰れ、1898年(明治31年)には砂糖は、ほぼ全量を輸入に頼る構造に変わっていた。
 こうして砂糖は日本の輸入品の二番目(金額ベース)を占めるようになった。この出費は、日本の国際収支悪化の元凶になっていた。……(中略)……。逆に言えば、台湾での製糖業の発展は、日本政府にとっても国際収支を大幅に改善できる経済効果も大きかった。……(中略)……。つまり、日本政府が巨額の費用を投じて台湾での製糖業の育成に努めたことにも、理由があったのである。(p.88-89)


日本の植民地政策に関する重要な指摘。



 1905年(明治38年)には橋仔頭に電話も敷設されている。現在の橋仔頭は高雄のベッドタウン化して静かな住宅地となっている。当時は最新鋭のインフラが整った、台湾でも最も恵まれた地方都市になっていた。製糖工場の機械メンテナンスのため1909年(明治42年)には、工場内に橋仔頭鋳物工廠が設立されている。これが現在の台湾機械公司のルーツである。
 ちなみに1904年(明治37年)には同じ橋仔頭に、高雄の陳中和が台湾人初の製糖工場を建設している。高雄市内にある観光名所の一つである陳中和記念館は、製糖業などで財を成した彼の邸宅であった。(p.98)


現在、台湾糖業博物館がある橋仔頭に関する記述。

陳中和記念館は1920年に竣工した洋館。毎月第二土曜日しか開放していないらしいので、近々高雄に旅行に行くのだが、その際にはオープンしていないようで残念。機会を作って行ってみたい。



 偶然とはいえ、この大日本製糖の栄華盛衰の過程で“鈴木”という名前が絡んでいた。

 最初の鈴木は大日本製糖の“創業者”の鈴木藤三郎である。彼は没落しつつある日本の製糖業に現れた“救世主”だった。……(中略)……。1903年(明治36年)には衆議院議員にも当選している。

 ……(中略)……。1905年(明治38年)には鈴木久五郎もまた政界に進出する。(p.100-101)


こうした大商人ないし資本家が政治家にもなっていくというのは、小樽の歴史や地域研究をしたときにも出てきた現象であり、時代的にもほぼ重なっているのが興味を引いたところである。



日本統治時代の屏東には日本軍の航空基地があった。当時は日本最南端の軍用飛行場で、日本の東南アジア進出とともに重要度は増していった。(p.162)


花蓮にも日本軍の飛行場があったように思う。高雄も軍需産業の拠点にもなっていったことなども考えると、台湾の地方都市の多くは日本統治時代には軍事拠点としての性格も持ち合わせていたのかもしれない



 東港には日本統治の時代の建物群も残っている。その代表例が延平路。明らかに医院だったと分かる建物が残っている。(p.195)


日本統治時代の建物は台湾の随所にある。ここ数年来の私の関心の対象なので、メモしておく。


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