アヴェスターにはこう書いている?
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リュシアン・フェーヴル、アンリ=ジャン・マルタン 『書物の出現 上』(その1)

中世も末期の書体は、社会階層やテクストの性質やそれぞれの地域毎に特徴を示している。その書体の多様性こそは、この時代のヨーロッパがいくつもの文化に仕切られていたことを、地方や地域はあたかも違う時代を生きているが如くに異なっており、またそこでは、各社階層は、国境をこえて同時にそれぞれ固有の文化を所有してもいたことを、はっきりと表明している。(p.41)


地域だけでなく、ジャンルなどによっても書体は異なっており、それにより書き手の思想傾向とも関連があることなどに興味が引かれた。例えば、スコラ学の書物とユマニスムの書物では書体が一般に異なっていた。



しかしながら、13世紀の開幕とともに始まるこの新しい時代の特質といえば、それは、修道院がもはや書物生産の唯一の担い手ではなくなり、しかも自家用のもの以外はほとんど書物を作り出さなくなってしまう点に求められる。
 知的生活の本拠が移動したのであった。以下に説かれるように、学者や教師や学生たちが専門職人と共同して書物の流通システムを築き上げる場所は、今後は大学の内部ということになるであろう。
 ……(中略)……。
 13世紀の初頭以降、いや、すでに12世紀の末からでさえ、大学というものの出現とその発展が新しい種類の読者層を産み出していた。(p.78-79)


13世紀頃から「知的生活の本拠」が修道院から大学へと移行したという。書物を生産する産業は大学のある街で発展することが多かったようだが、修道院から大学への知的生活の本拠の移動はどうして起こったのだろうか?この点も気になってくる。

大学と修道院をめぐる歴史についても、今後機会があれば調べたい。



 ところで、13世紀の末から14世紀にかけて、ただ作品が朗読されるのに聞き入るだけではなく自分自身でも読書のできる人の数が増加するにおよんで、ある種の専門技能化がこの文学の分野にもおとずれる。これから先、作者は、自分の作品がどのような形で人々に迎えられるのかということを顧慮せず、ただ執筆し、あるいは編纂することに専心するのだ。
 しかし、そうした好条件を享受するための最上の方策は、あいかわらず文芸後援者に助力をあおぐことであった。国王あるいは大諸侯の一人が作品の献呈を受け入れ、豪華に仕立て上げた献本を喜んで手にしてくれるようなら、作者としては自分の労苦に対する物質的な報奨をほぼ確実に期待できるばかりでなく、さらに一歩進んで、自分の作品が世間の人びとからも好評をもって迎えられる絶好の機会を提供されたことにもなるのである。(p.90-91)


読者を想定する必要性が少なくなったというのは興味深いが、この必要性がなくなったわけではないだろう。

また、言論の内容も、こうした後援者の必要性によって規定される面があっただろう。政治的に見て貴族主義的で保守的な性格の文書が好まれる傾向が生じただろう。



 要するに製紙業と出版業とは密接な関係にあるのであって、一方の繁栄なくして他方の繁栄はありえないのである。西ヨーロッパにおける製紙工場と印刷工房の分布を各時代について比較してみれば、このことが確認できよう。印刷術が西洋を征服していく1475年から1560年にかけて、ヨーロッパが製紙工場で覆われるのも驚くにあたらない。(p.129)


産業間の関係を念頭におきながら工場などの分布をみていく、あるいは逆に工場の分布などから産業間の関係を抽出していくという考え方は参考になる。



 印刷産業が誕生した1450年頃、テクストはその性格と目的に応じて、非常に異なる書体で筆写されていた。その書体は四つに大別でき、各々が固有の用途を担っていたのである。
 まずは従来からの<スンマ書体> lettre de somme つまりスコラ学の著作に使われたゴチック書体であり、これは神学者や大学人になじみの書体といえる。
 次に<ミサ典書書体> lettre de missel〔<本文書体> lettre de forme ともいわれる〕だがこれはスンマ書体より大きく、直線と折れ線の組合せからなる書体であり、教会用の書物に用いられていた。
 さらに、各地の書記局は独自の伝統的書体を有していたが、その書記局で使用されていた草書体から派生したところの、<折衷ゴチック書体> gothique batarde がある。これは各国語による豪華写本の他に、ラテン語による物語作品にも用いられることがあった〔図版14〕。
 最後が一番新しく、しかも輝かしき将来を約束された、人文主義者(ユマニスト)の書体である。この<いにしえの書体> littera anitiqua はやがて<ローマン体> romain と名を変え、活字体の標準字体として西ヨーロッパのほとんどで取り入れられる。これは元来ペトラルカやそのライバルたちが、<カロリンガ小文字> minuscule caroline に想を得て流行させた書体であった。1450年頃この書体を用いていたのは、古典古代のテクストをなるべく元の姿(むしろ想定された元の姿と言うべきか)のまま再現し、その体裁においても古典と、伝統的な中世のテクストとの間に一線を画そうと願った、一握りの人文主義者や書物好きの大貴族だけであった。このローマン体の仲間には、<書記局書体> cancellaresche といわれる草書体を加えることができよう。ヴァチカンの尚書院で15世紀半ばに取り入れられたこの書体は、その後フィレンツェ、フェラーラ、ヴェネツィアの書記局にも広がり、やがて<イタリック体>がこの尚書院体から生れることになる。
 ……(中略)……。
 かくして実にさまざまな書体の手本が、黎明期の印刷技術者に示された。このため揺籃本のみならず16世紀初めの活字本において、使われた活字は非常にバラエティーに富んでいる。写本時代と同様、書物のジャンル――したがって読者層――と特定の活字とは、対応関係にあるのだ。学僧や大学人が読むスコラ学や教会法の書物などはスンマ書体、自国語で書かれた一般向けの物語作品は折衷書体、風格ある言語を愛する人びと向けのラテン語の古典やユマニストの著作はローマン体で、といった具合である。(p.208-211)


本書のうちで最も面白かった箇所の一つ。ローマン体が古典古代のテクストを忠実に再現しようとした人々に愛用されたことは、書体の精神的背景が書体に反映していると思われ、特に興味深い。

ちなみに、コンピュータで文章を書く時代になると、書体の持つ意味は大きく変わっていると思われる。



 要するにまず各地の字体が統一され、次いで前述の四大書体の間での淘汰がすすみ、結局はローマン体という唯一の字体が、イタリア・フランス・スイスの一部・スペイン・イギリスというヨーロッパのほぼ全域で勝利を収めたのである。
 このローマン体の勝利とは、ユマニスム精神の勝利の体現にほかならず、その歴史は書体なるものの歩みをみごとに象徴しているのだから、この征服の経緯を辿ることは決して無駄足ではない。
 すでに述べたようにローマン体を流行させたのは、ペトラルカやニッコロ・ニッコーリなど、イタリアのユマニストの小グループであった〔図版15〕。彼らは古典の筆写を行うに当たって、その写本に原典となるべく似た外観を持たせたいと望んだ。(彼らユマニストは当時の知識人の例にもれず、古典の筆写に傾注する素晴らしい能書家なのだった)。つまりかのレオン=バッティスタ・アルベルティが、従来の中世建築の装飾を「野蛮な(ゴチック)」と評したのと同じく、中世のテクストの見てくれを「野蛮な(ゴチック)」書き方と名づけて嘲弄し、これとは別の書体を欲したのである。(p.213-214)


前の引用文と同様。


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