アヴェスターにはこう書いている?
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野口雅弘 『官僚制批判の論理と心理 デモクラシーの友と敵』

 ウェーバーの著作においてはしばしば、宗教について語られるときに、その政治的な意味が検討され、また支配について論じられているときに、その宗教的な起源が問われる。つまり、宗教社会学は支配の社会学と相互に密接に関連しているのである。だから、13世紀の聖フランチェスコに向ける彼のまなざしが、社会民主党を論じるミヘルスのまなざしと重なるのも不思議ではない。(p.43-44)


興味深い指摘。



 官僚主導体制は、そのパターナリズム(父権的温情主義)によって保護された人びとの「政治的未成熟」を育んでしまう。複数の選択肢を提示し、それらをめぐって開かれた場で議論を戦わせ、そうして悩みつつも一つの共同的な決定をしていくというデモクラシーの経験が、こうした官僚国家においては欠落してしまう。そしてこの「未成熟」が官僚主導体制を強化し、「お上意識」的な政治文化を培うことになる。したがって、このような状況にあっては、デモクラシーと官僚制の対抗関係について論じ、前者を支えるために「政治主導」を唱えることには大きな意味があるし、これがウェーバーの政治論の一つのキーノート(基調)である。
 しかし、デモクラシーを掲げて官僚制と戦い続ければ、最後にはデモクラシーが完勝する、とはいわないまでも、なんとかデモクラシーを守れる、という単線的な図式には問題がある。聖フランチェスコの教団がその発展の過程で新たな階層構造を生み出してしまったのは、内部の人びとが「堕落」してしまったからというよりも、信仰の条件としての教団を維持する必要からであった。デモクラシーにおいても、構成員を平等に扱うための条件を創出し、維持するには、そのための制度や組織(官僚制)が不可欠なのである。
 ウェーバーは、ミヘルスのようにデモクラシーの名のもとで官僚制と戦い、その戦闘において最終的な勝利をかちとろうとはしない。そして、デモクラシーの運動のなかに官僚制化の傾向を見いだし、そのせいで絶望することもない。そうではなくて、デモクラシーと官僚制の関係にジレンマを確認し、その緊張関係を直視することを求めるのである。(p.45-46)


官僚制的な機構がある程度以上の規模の統治には常に必要になるという基本的な事実を認めることから問題の解決策を考えなければならない。ウェーバーのように緊張関係に耐えることは、「強い個人」を仮定することになるため、すべての人に共有することはできないかもしれない。しかし、社会のエリートやそれに近い高等教育を十分に受けた人々の間では、こうした了解が形成されていることが望ましいように思われる。そして、マスメディアなどにもこうした人々の見解が反映されるような社会であってほしい。



 トクヴィルによれば、境遇の不平等が自明とされる社会にあっては、格差や特権は問題にされることはない。しかし、民主化へと歩み出すと、格差や特権への憎悪は民主化の進展につれて激しくなる。こうした過程において、差異が意識されるようになり、以前の時代と比べればごくわずかな格差に対しても、激しい憎悪が沸き立つことになる。
 ……(中略)……。
 デモクラシーの時代には、不平等や格差、あるいは特権や既得権益へのネガティヴな情念が強くなる。こうした情念は、平等な、したがって均質で、ムラのない、標準化された取り扱いを要求することになり、こうした傾向のなかで中央政府が強大化し、そこにおける画一的な行政が進展するというわけである。(p.47-48)


トクヴィルの議論を用いて民主化と官僚制の関係の一面を描き出している。特権や既得権益などへの憎悪が形式的な平等性を求めることになるが、行政の手続き的な性格は適合的である。

デモクラシーの体制の社会では格差や不平等への憎悪が助長するという指摘はたしかにそうなのだろう。この理由はデモクラシーの社会における「共通善」からも説明できると思われる



 デモクラシーは自らの内から官僚制を呼び寄せながら、しかし同時に官僚制とぶつかり、それを憎む。平等な取り扱いは標準化を必要とし、こうした必要性は官僚制的な機構を組み上げるが、エリート支配と硬直した画一主義はデモクラシーの敵として現れる。このような絡み合いを確認するならば、ここでも単純にデモクラシーを掲げて官僚制を叩けばよいという議論がうまくいくわけがないことが明らかとなる。こうした形式で議論を進めるかぎり、私たちはどこにも到達できないだろう。(p.50)


官僚制というより公務員へのバッシングが盛んなわけだが、その種の議論では「どこにも到達できない」という指摘は妥当である。日本における公務員バッシングでは、ここで述べられているようなデモクラシーとの関連だけでなく、財政的な損失の押し付け合いという政治闘争の意味合いも帯びている面があるが、いずれにしてもその種の考え方が現実を打開する方策を示すことはないだろう。



 それに加えて、ウェーバーの著作には独自の問題圏があり、また彼なりの用語法を使うことも多いので、「ウェーバー研究」は自律化しやすく、たとえばホッブズやモンテスキューといった政治思想史の連関からは切り離されてしまいがちである。しかし、一般に思われている以上に、ウェーバーと政治思想史とのつながりは深い。そのように明言はないものの、とくにフランスの思想家から彼は多くを学んでいる。
 たとえば彼がトクヴィルを読んでおり、そのうえでアメリカにおける自発的なアソシエーションの活動に注目する視点を引き継いでいることは、ほぼ間違いない。ウェーバーはすべての人が自動的に加入するようなカソリック教会(「キルヒェ」)型の類型に対して、自発的に、そして一定の資格審査を経て加入が許される教派(「ゼクテ」)型の類型を対置しているが、後者はトクヴィル的な意味でのアソシエーションとほぼ同じである。(p.58-59)


興味深い指摘。政治思想史や政治哲学に関心が出てきているので、とりわけ興味を引かれた箇所。



 「危機」が到来しないためには、二つのことが必要とされる。一つは、経済政策などの分野において、庶民感覚によって左右されない自律的な「システム」の領域を確保することである。「システム」が人びとの日常感覚から自律したロジックで作動し、したがって人びとの素人的な「民意」あるいは「動機づけ」からは隔絶された専門知によって制御されるべきと考えられるならば、それに対する不満はかなりのところ封じることができる。(p.76)


ハーバーマスの言う「後期資本主義」(ケインズ主義的な財政政策や福祉政策を行なう政府が存在する経済社会)では、市場原理が貫徹されず、経済が「政治化」することとなるため、「正当化の危機」が不可避であるとされる。それを避けることができる条件の一つ。

ここでの主張は昨今の政治談義において「庶民感覚」や「民意」が単に重視されるというレベルではなく、橋下徹大阪市長や小泉元首相のような「カリスマ的なリーダー」によって至高のものとして扱われていることと関係がある。彼らのようなリーダーの人気の源泉の一つは、現在の日本を含めた諸国の政治において「自律したシステム」が確保できなくなっていることがあげられるだろう。こうして生じた不満を救い上げることができた人が「カリスマ的リーダー」となり、彼らは彼らの権力の源泉として「庶民感覚」や「民意」を活用するからである。



 もちろん、すでに言及したハーバーマスや松下圭一は、新自由主義とはまったく関係なく、むしろそれには批判的な論者である。それにもかかわらず、彼らが切り開いた、デモクラシーを根拠とするテクノクラート、あるいは官僚制への批判は、ある点までは新自由主義的な議論と共鳴することになる。
 ……(中略)……。中央集権的な「官僚主導」を批判する点で、個人の主体性を強調する論者も、市民社会の理論家も、新自由主義者も、あるいはポスト・モダン系の論者も、共闘することができたのである。
 ……(中略)……。
 ただ、この結合は、新自由主義に有利な仕方で進行することになる。……(中略)……。
 ただし、こうした「より多くのデモクラシーを」という方向性は、正当性を官僚や専門家の手から奪い取って、人びとに手渡すことについては同意ができても、彼らに頼らずに、一体どのようなかたちで、どのような正当性を形成するかについては、「内紛」を起こすことになる。後期資本主義における行政が、形式合理性では割り切れず、何らかの、そしてさまざまな実質合理性の要求を受け入れ、そうした諸合理性間のバランスをとらなければならないとすれば、そこに一義的で、すっきりした決定を期待することは、そもそも無理な注文である。(p.88-90)


さまざまな論調が中央集権的な官僚主導を批判する点では共闘できるが、この共闘は、新自由主義にとって最も有利であるという指摘には同意見である。以前に書いたことだが、私自身が官僚批判を表立って書かないようにした理由もまさにこの点にあった。

官僚制を批判したり、公務員バッシングをしても、それに代わる積極的な方策については議論が分かれるし、どの議論に沿っても容易にうまくはいかないものである。現実の複雑さを弁えてすっきりした解答を求めないことも必要だとする指摘には共感できる。ただ、一般大衆にこの主張が受けるかどうかは別問題だとも思う。



 マイケル・サンデル(1953~)のような現代のアリストテレス主義者は、リベラリズムの中立性の原則を批判しつつ、価値に関わる論争に積極的にコミットすることを求める。「共約不可能性」という前提のもと、価値の衝突を回避して、平和的に共存することが自明視されると、それぞれのオピニオンを吟味し、つき合わせ、その選択の前で真剣に考えることがなくなってしまうというのである。これは正しく、重要な指摘である。
 しかし、諸価値が混迷する状況で、そうした「試み」は必要ではあっても、そう簡単なことではない。(p.92)


「共約不可能性」という科学哲学のタームも、リベラリズムの中立性の原則と相性が良いようだ。いずれも具体的な諸価値の間における比較衡量を回避する枠組みを要求する。



少数の人びとによって閉じられた扉のうしろでおこなわれる官房政治は、今や、そのこと自体で悪しきものと見られ、その結果、政治生活の公開性は、それが公開であることだけですでに正しく良きものであると見られるのである。(p.93)


カール・シュミットを引用した部分(孫引き)。この発想も現代日本に見られるものであると思う。例えば、官僚制以外にも自民党の「派閥」などに対しても似たような発想から、「派閥」という言葉自体に(本来は含まれていない)否定的評価が含まれるようになっていることなども、これと同様だろう。



 カリスマ的な指導者が注目されるのは、こうした文脈である。官僚制の「鉄の檻」が強固であればあるほど、これに対抗する強い政治指導が求められる。そして、官僚制が悪いとされればされるほど、カリスマ的な指導者がカリスマ的に、つまり官僚制的な合理性からすれば「非合理」に振舞うことが正当化される。したがって、さまざまな領域で「管理社会」とその「疎外」が問題化されるような時代には、カリスマへの期待が高まることになる。
 「ウェーバーとニーチェ」という問題圏も、こうした官僚制vs.カリスマという構図と深く関係している。日本においてこの問題圏を切り開いてきた山之内靖(1933~)の関心が、この「ウェーバーとニーチェ」と同時に、「総力戦体制」であったことは、けっして偶然ではない。大戦中に形成された動員体制が「戦後」にも継続していくという連続説は、こうして継続する「檻」を攪乱する何か――それを「ニーチェ的」と呼ぶかどうかはともかく――への期待を高めるのである。(p.103)


官僚制というか行政を悪であるとする情念とカリスマ的指導者を求め、無批判的に受け入れようとする心理とは結びついている。「ウェーバーとニーチェ」という問題圏がこうした意味空間に位置づけられるという指摘は興味深い。



 硬直化した官僚制に対して、カリスマ的なリーダーが戦いをいどむという議論の構図には、いまひとつの問題がある。それは、政治リーダーの側の「決定の負荷」という問題である。「鉄の檻」のメタファーとも関係するが、多くの場合において「官僚制化」にはネガティヴな評価がつきまとう。したがって、なるべく官僚制化しないようにすること、あるいは「政治主導」の方向に向かうことに、おのずから肯定的な評価が付けられることになる。しかし、見逃してはならないのは、「官僚制化」には政治的な決定の領域を「縮減」する機能があるということである。
 逆にいえば、「脱官僚」は、政治的な決定作成の幅を押し広げる。したがってそれは、その分だけ何らかの仕方で決断し、しかもその決定内容について説明責任を果たす重荷を抱え込むことを意味する。しかし「脱官僚」のスローガンには、多くの場合、これらの決断とそれへの説明責任への準備が含まれていない。(p.113)


この説明責任を果たす場合でも、適切な政策は現代社会の複雑に絡み合った諸関係の調整を必要とするものが多いから、これに対する説明は人びとが求めるような単純明快な説明にはならず、人びとがしてほしい説明を提供することはできないため、人びとの支持を得られない。説明を十分にしなければ説明を求める要求が高まり支持を得られない。支持を得られる説明をする場合、新自由主義のプログラムのような政策をとらざるを得ず、適切な政策がとれないから支配者は短期間、人びとの支持を得られるかもしれないが、実際に社会に存在する問題を解決することはできない。こうして八方ふさがりになっているというのが、現代日本の政治状況であろう。

「脱官僚」や「政治主導」を標榜しても、現実に問題を解決する政策、人々の支持を得られる説明、そして、政策を決定したとおりに忠実に実行する手段の3つが揃わない限り、そうしたスローガンは企画倒れになるだろう。



 ただ、本書がここで強調しておきたいのは、こうした状況において、新自由主義的な方向性をもつ政治リーダーが有利な位置を占めるということである。諸々のうまく説明の付きにくい公行政の諸事業をバランスに留意しながら維持していこうとするならば、その説明はとても苦しいものになる。そこには、ほころびと曖昧さが残ることになる。これに対して、公行政が担ってきた諸事業を全廃する方向で「戦う」ならば、政治姿勢の一貫性と強さをアピールすることができる。
 あるいは逆に、強いリーダーシップやブレのない一貫性を求める政治家は、新自由主義に引き寄せられるともいえる。今日、そうしたタイプの政治家であろうとするならば、対外的にはタカ派で、対内的には「小さな政府」を唱えるというのが、もっとも無理がない。こうすれば、決定の負荷を縮減し、筋を通しやすい。政策内容が政治家のキャラクターを規定するだけでなく、政治家のイメージが新自由主義的な政策を呼び寄せもする。ここには、お互いがお互いを引き付けあうような関係性の磁場がある。原理や強さを求めるタイプの政治家と新自由主義的な政策の間には、必然的な結びつきはない。それでも、両者の間には一定の選択的親和性が確認できるのである。
 近縁の政治家には「政治哲学」がないとか、芯がないのでブレてしまって情けないとの嘆きを聞くことがあるし、その通りかもしれないと思うこともある。しかし、政治家には芯の通った信念が必要だという一般論的な願望が、今日の状況においては、官僚や官僚制を批判し、「小さな政府」を唱える新自由主義にきわめて有利に働くということも見逃されてはならない。そうではない立場をとろうとすると、財源の問題に直面せざるをえず、またわかりやすい「公平性」では割り切れない、さまざまな「介入」に対して説明が求められ、試行錯誤を繰り返さざるをえないという傾向にある。ここに、批判を受ける余地が広がる。しかし、「後期資本主義国家」において、行政は原理的に割り切れない、パッチワーク的な構築物たらざるをえない。したがって恒常的な議論と微調整が、そしてそれゆえのブレがどうしても出てきてしまう。私たちに求められているのは、こうしたゴタゴタの不可避性に対する認識と、それゆえの我慢強さではないか。(p.115-117)


強いリーダーシップを求める世論と新自由主義的な政策との親和性について見事に指摘している。



違う表現をすれば、官僚制が否定的にとらえられる度合いに応じて、カリスマ側の問題は問われなくなるという力学が働く。
 しかし、官僚制はもはや「鉄の檻」ではない。社会のキーワードは「規律化」から「フレキシビリティ」へと移行している。そうであるとすれば、官僚制バッシングをともなった強い政治的リーダーシップを期待するという議論は、もはやそのままでは継続できないのではないか。(p.121)


「官僚制バッシング」(公務員バッシングないし官僚への非難)は不適切な行為である。むしろ、その機構をフレキシブルなものに組み替えていく地道な度量が求められる、ということだろう。

私自身、もう10年近く前に書いた行政批判の文章で、「プラグマティックな行政」を目指すべきだと書いたことがあったことを思い出した。

いずれにしても公務員バッシングと強いリーダーシップを求める論調は、現在の問題を解決するためには的外れであり、そのような程度の低い議論からは早急に卒業することが求められる。

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