FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

バートランド・ラッセル 『社会改造の諸原理』(その3)

 国家のもたらす主たる弊害は、戦争における能率の助長ということだ。あらゆる国家がその強さを増大させるとすれば、力の均衡に変化は起こらず、したがってどの国家も、勝利する確率が以前より多くなるわけではない。しかも攻撃の手段がさまざまに存在する場合には、その初めの目的が防御的なものであったとしても、当の手段を使いたくなる誘惑は、早かれおそかれ圧倒的なものとなりがちである。このようにして、国家の境界線の内部で安全保障を促進した方策が、まさに他の場所での不安全を助長するわけだ。内部で暴力を抑圧し、外部で暴力を促進する、ということこそ国家の本質に属している。国家というものは、人類をまったく人為的に分断し、また人類に対するわれわれの義務をも人為的に分断している。つまりわれわれは、人類の一集団に対しては、法によって拘束されており、他の集団に対しては、ただ強盗がもつような慎重さによって拘束されるにすぎない。国家はさまざまなものを排除することによって、また次のような事実、つまり国家が侵略戦争にのり出す場合にはつねに、国家は殺害と強盗のための人間たちの結びつきに転化する、という事実によって、悪となるのである。(p.40-41、強調は引用者)



ラッセルによる「攻撃の手段がさまざまに存在する場合には、その初めの目的が防御的なものであったとしても、当の手段を使いたくなる誘惑は、早かれおそかれ圧倒的なものとなりがちである」という指摘こそ、軍事力によって自国の平和を維持しよう、と言う人々が理解していない(少なくとも意見が食い違う)点である。

私見ではラッセルの言い方ではまだ足りない。というのは、心理的な要因で説明しているからである。行政組織の活動という観点から説明する方がより妥当であると考える。つまり、軍事力の初めの目的が防御的なものであったとしても、その軍事力は基本的に一つの(あるいは、ごく少数の)官庁が所管することになる。(複数の官庁にわたって「分割統治」することは指揮命令系統が複線化される可能性があり、軍隊組織に適さないため。)

そこで問題になるのは、その軍事的官僚組織は自律的に行動できてしまう、ということである。もちろん、日本の場合で言えば、どこの官庁であれ、そのトップには大臣がおり、それらの国務大臣の上には文民たる内閣総理大臣がいるという仕組みになってはいる。しかし、90年代、高級官僚が悪者にされて批判された時期に、しばしば各省庁に対して「省益あって国益なし」などと揶揄されたことや、小泉内閣の時代に省庁が「抵抗勢力」とレッテルを貼られたことに見られるように、それぞれの分野の専門知識を有する専門家集団として官庁は、単に首相や大臣の命令のみならず、その官庁独自の論理でも活動するのが常であって、そうした活動が存在するということに関しては例外はない。そして、その活動は基本的に、自らの官僚組織の目的や活動を強化する方向に向かう。こうした組織の論理が「防衛省」に当てはまらない理由を探すことは極めて困難である。

では、「防衛省」の場合、それはどのような形で表れると推測されるか?当然、軍備の増強であり、活動範囲(内容・地域)の拡張である。

そのように軍備を増強して他国よりも十分に強いと認識すれば、他国への侵略可能性は急速に高まる。また、活動範囲が内容的にも地域的にも広がれば広がるほど、他国との軍事に関わる接触は増える。領海侵犯や何らかのトラブルに巻き込まれる可能性も高まる。より現実的には日本の軍隊が米軍に補給しているときに、戦闘に巻き込まれる可能性などもある。

従って、このように「防衛省」が、官僚の論理に従って活動していくことによって、軍備の増強や活動範囲(内容・地域)の拡大は、軍隊の活動を――ラッセルが指摘するように――攻撃的な方向にシフトさせるし、他者からの攻撃を受ける可能性も高まるために、交戦状態になる可能性を増大させるのである。

ストライキに際して、軍隊に出動を命じてスト参加者を制圧する、といったことはよくあることだ。雇い主の方がはるかに数が少なく、したがって雇い主の側を征圧することの方がずっと容易であるのに、彼らに対して軍隊が差し向けられることは決してない。(p.44)



軍隊なるものが誰の味方であるか、という点は、しっかりと見据えられなければならない。第一に、軍隊は何はさておき、軍隊自身を防衛する。軍隊自体の安全をある程度確保した後で、政治支配者たちに奉仕する。次いで、軍隊とその指揮官たる政治家たちに資金を供給する大企業を守る番になる。労働者を含め、一般庶民を守ることは、一番最後であり、せいぜい可能であれば守る、という程度にすぎない。

防衛力を増強しようと思っている人も最近は多いようだが、「軍隊が自分を守ってくれる」などと当てにしないほうが賢明というものである。

 国家が所有すべき第二の種類の権力は、経済上の不正義を減少させることを狙いとする権力である。・・・(中略)・・・。しかしわたしは、正義それ自身も法律と同じように、至高の政治原理とされるにはあまり静止的であると思う。つまり正義なるものは、それが達成されてしまうと、新しい生命への種子や発展への刺激をぜんぜん含まないものとなる。(p.47)



この考え方はラッセルの思想において特徴的なところである。そして、現在の日本の平和運動や「格差」是正を要求する運動にも参考にしうる点だと考える。特に平和運動の方に当てはまるが、平和の尊さを訴えるというやり方では、まったく不足であることがラッセルの考え方から導き出される。

そうした平和主義者が描く、戦争のないという意味での「平和」な社会像は、ラッセルに言わせれば、正義ではあるが静止的なのである。戦争がない社会は、確かに間違いなく正義であり、軍事力など小さければ小さいほど理想的であることは間違いなく正義である。

しかし、その主張だけでは静止的な像しか描けていない。平和の尊さを訴える平和主義者に対して、(客観的には戦争への道を歩ませる者だが)「本人の主観的考えでは平和主義者である防衛力強化派」は次のように言う。「軍隊をなくして他の国に攻撃されたらどうするんだ?」と。

もちろん、それに対する答えを大抵の平和主義者は持っている。

まず、防衛力を完全にゼロにすべきだと言っている人は少ない、という点である。その意味で「丸腰」ではない。敵国の侵入を国境線の外まで追い返すことができれば良い。ただ、現状では直接的領土侵犯よりはミサイル攻撃の方が可能性が高いのだが。

そして、より本質的な平和主義者の主張は、政府レベルの外交であり、さらには民間レベルの友好的で相互活性化的な交流の必要性である。そのビジョンを示すことこそ、今、平和主義者に求められているのではなかろうか。外交や交流は持続的な活動であり、常に動き続けるものである。その意味で静止的ではなくダイナミックであり、活動のためのエネルギーの投入が必要であるし、知的にも戦略を常に更新していくことが必要である。少なくとも、私はラッセルの著書を読んでそのような考えをより強くした。
スポンサーサイト




テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/80-906fc918
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)