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アヴェスターにはこう書いている?
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牧野雅彦 『新書で名著をモノにする 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』』

 ルターの聖書翻訳をめぐる長い註(RS.65-69,O.101-109,K.139-146,NK.139-142)については羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』が、そこで引用している「ルター聖書」がルター自身の訳ではなく後に流布していた「現代版」であること、もともとのルター訳では当該箇所(コリント前書7・20)はベルーフと訳されていなかったことを明らかにしています。……(中略)……。
 「倫理」論文全体の文脈で見るならば、この註記におけるルターの聖書翻訳の論点それ自体は立証されなくとも、ルターではなくルター派において「ベルーフ」の訳語と職業義務という思想が定着していったと理解すれば本文の論旨自体は生かすことができます。(p.63-64)


同意見である。羽入の批判は細部を取り上げているが、そこでの誤りを「犯罪」に仕立て上げようと努力するが、その立論に無理があるだけでなく、ウェーバーの議論全体を否定したかのような姿勢が垣間見えるが、全体の文脈から見れば、そうした批判にはなっておらず、羽入の批判に対して反論が多々なされるのも、単にウェーバーが一部で「知の巨人」として偶像崇拝されているからではなく、そうしたところに理由の一つがあると思われる。



 カルヴィニズムとカトリックの平信徒との対比のこの箇所でカトリックの倫理を「心情倫理」としているのは改訂による付加ですが(RS.113,O.191,K.212,NK.259)、これは誤解を生みかねない表現です。もともと「心情倫理」(Gesinnungsethik)というのは第一次大戦前の『宗教社会学』に出てくる概念で、「救われている」という心の状態を重視し、そうした状態をもたらすように意識的に自己を組織していく救済方法を示すものとして用いられています。これは本文で述べた「神の容器」と「神の道具」という両方の「心の状態」を含んでいて、そうした「心の状態」の組織の首尾一貫した方法が「心情倫理」、その典型の一つがプロテスタンティズムということになります。ところが第一次大戦後の『職業としての政治』で、結果に対する責任を重視する「責任倫理」と対比されるようになると、「心情倫理」はもっぱら否定的な意味合いを帯びてきます。ここでの付加は明らかに『職業としての政治』での「心情倫理」の用い方と重なっていますが、そうした文脈ではプロテスタンティズムはむしろ結果を重視する「責任倫理」に近いということになり、「心の状態」の組織の方法としての「心情倫理」とは齟齬することになるからです。(p.75)


「心情倫理」という用語の用法や意味合いがウェーバーのテクストの中でも変化しているという指摘は興味深い。この概念は『職業としての政治』における用法の方が有名で一般に流布しているから、『宗教社会学』では用法が異なるという指摘は参考になった。



 宗教的な興奮が醒めた後に残されたのはパリサイ的な「疚しくない良心」であったというのです。……(中略)……。
 ここで注意すべきは、プロテスタント的禁欲から出てくる「資本主義の精神」というものが、宗教的信仰や倫理的感覚のたんなる希薄化、功利主義化ではないということです。「パリサイ的」という形容は新約聖書の中でイエスに対立するユダヤ人たちに由来しています。彼らパリサイ派の人々はユダヤの律法を楯にイエスを陥れようとします。彼らの告発のためにイエスは十字架に架けられることになったのでした。ここから「パリサイ人」あるいは「パリサイの徒」というのは規則の詳細にこだわり、それに則ってさえいればよしとする偽善者を指して用いられるようになります。(p.84-86)


パリサイ的な考え方というのは、サンデルの言うリベラリズムと共通する面があるように思われた。正義の原理が善に優先するという考え方は、形式合理的な発想であり、実質合理的な観点から見ると「偽善」と判断されることになる。



 すでに註記したように、第一次大戦前に書かれた『宗教社会学』で定義される「心情倫理」は、大戦後の講演『職業としての政治』において「心情倫理」と「責任倫理」というかたちで対比される場合とは意味合いが異なっています。禁欲的プロテスタンティズムを典型とする「罪の内面化」(ニーチェのいう「良心」)に焦点を合わせた倫理的生活態度という『宗教社会学』の定義の文脈では、「心情倫理」に「信念倫理」や「信条倫理」という訳語を当てるのは不適、あえていえば誤訳ということになります。(p.125)



Gesinnungsethikの訳語については、野口雅弘「信条倫理化する<保守> ウェーバーとマンハイムを手がかりにして」(『現代思想 総特集 マックス・ウェーバー』(2007年11月臨時増刊)所収)では、「心情倫理」より「信条倫理」の方が適当だとする主張があり、私もそれを読んでから「信条倫理」という訳語を使うことが増えていたが、本書の指摘を読むと『宗教社会学』での用語法まで踏まえると、やはり「心情倫理」の方が安全かもしれない、とも思えてきた。



 いいかえればウェーバーをどう読むかは、近代世界に対する立場の取り方によって変わってくる、その意味において「倫理」論文を読むことは、いわば近代世界そのものを読む――われわれの内にある近代理解を明らかにする――作業でもあるのです。(p.174)


同感である。ウェーバー研究の動向をサーヴェイすることは、読む者の立場の取り方と読み方との関係を見えやすくするためにも必要なことであると思われる。

私自身はウェーバーをどう読んでいるのだろうか?一番多く読んでいた頃と、現在では立ち位置が変わっているので、自分でもよくわからないところがある。少し落ち着いたらウェーバーのテクストとウェーバーの研究書を読む予定なので、その際に、再確認してみたいと思う。



 キリスト教信仰にかぎらずおよそ宗教など非合理な時代遅れの産物であって、もはやわれわれに無縁であるということは簡単かもしれません。だが、そうした信仰の支えなしですますことができるほどわれわれは確かな足場の上にいるわけではない。民主主義であれ、平等であれ、人権であれ、キリスト教の信仰にとってかわる説得力ある根拠を、われわれは見いだしているわけではない。……(中略)……。いずれにせよ、そうした遺産を過ぎ去ったものとして笑い飛ばすことができるほどわれわれは進歩しているわけではない、ということを今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。(p.180-181)


このあたりの主張はサンデルの主張とも重なるところがあり興味深い。先日読んだ柄谷行人のテクストにも同じような方向性の主張が見えたが、政治や社会をめぐる言説のパラダイムは変わりつつあるということが感じられる。

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