アヴェスターにはこう書いている?
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マイケル・サンデル 『民主政の不満 公共哲学を求めるアメリカ 上 手続き的共和国の憲法』

手続き的共和国は、生き生きとした民主的生活がもつ道徳的エネルギーを保持することはできない。それは、狭量で不寛容な道徳主義に通じる道徳的空白を創り出す。そしてそれは、市民が自治に参加するために必要となる人格的資質を涵養することができない。(p.27)


手続き的共和国と正が善に優先するとするリベラリズムは道徳的空白を創り出すという指摘は、私がサンデルから学んだ大きなポイントとなった点である。また、人格的資質を涵養する必要性についての指摘も参考になった点である。ただ、後者はどこまで普遍化できるか――すなわち、人格的資質を涵養しなければならないのは誰か?すべての人に必要とされるのか?――という問題があるように感じており、その疑問に対する答えを探求していきたいと考えている。



 ロックナー・コートは、切り札としての権利という意味において正の優越性を確立したが、憲法上さらに推し進めて、諸目的の間で中立的な権利の枠組みとしてそれを定着させることは、のちの裁判所に委ねられることになった。手続き的共和国の特徴の一つである正の優越性のこの第二の局面は、第二次世界大戦後まで、憲法上はっきりとしたかたちで現れることはなかった。しかしその初期の表現は、20世紀の最初の3分の1の期間に、ホウムズ(Oliver Wendell Holmes)、ブランダイス(Louis D. Brandeis)、そして後にストーン(Harlan F. Stone)の各裁判官の反対意見に見出すことができる。(p.52)


中立性の理想の初期の表現が現れたのが20世紀の最初の1/3であるというのが興味を引いた。というのは、ドイツの社会科学の世界で方法論争Methodenstreitが19世紀末(1880-1890年代)にあったが、その論争において、歴史学派経済学に対して、カール・メンガーらのオーストリア学派の優位がほぼ確実となっていた時期であり、マックス・ウェーバーの方法論、特に価値自由Wertfreiheitの概念などの形で論じられていた時期と重なるからである。

方法論争も共和主義に対してリベラリズムが優勢となっていくアメリカの憲政史にやや先行してはいるが、ほぼ並行して同じ流れで進んでいたと見ることができ、これによりその論争の意味付けもまた深みを持つことになる面があるように思われる。例えば、歴史学派と共和主義にも共通性が認められるのではないか?



 宗教的自由についての主意主義的な正当化に異議を唱えることは、必ずしも“人々は決して自分の宗教的信仰を選択するわけではない”というロックの見解に与することを意味することにはならない。それは単に、主意主義的な見解が主張すること、すなわち、“尊重に値する宗教的信仰は自由かつ自発的な選択の所産である”ということに反論することである。宗教的信仰を尊重に値するものとするのは、その会得の方法――選択、啓示、説得あるいは習慣化――ではなく、善き生においてそれが占める位置、あるいは政治的観点からすれば、それが有する“善き市民が身につけるべき習慣及び性質を促進する”傾向である。……(中略)……。
 しかし、手続き的リベラリズムにおいては、宗教的自由の保障を要請する論拠は、宗教の道徳的な重要性にではなく、個人の自律の保護の必要性にある。(p.82)


善き生において占める位置や良き市民を形成する傾向の有無や程度によって、その宗教的信仰が尊重に値するかどうかが決まるという目的論的な見方と手続き的リベラリズムの見方は、ウェーバーの「実質合理性」と「形式合理性」の概念の対比と重なる部分が多いことに気付いた。

ウェーバーが形式合理的な傾向が優勢となっていったと彼の時代を診断したことは、リベラリズムが優勢となっていくプロセスと並行している。ただ、目的論的な考え方と実質合理的な考え方と重なる部分は多そうだが、完全に一致するわけではない。目的論的な考えや共通善ということを念頭におくことで、実質合理性という価値判断を伴うがゆえに客観化しにくい特性について、より明晰に考えることができるように思われる。



 自己がその目的に先行する存在であり、かつ或る時点でそれが果たしている社会的役割とは独立した存在と考えられる場合には、評判は伝統的な意味での名誉の問題とはなりえない。負荷なき自己にとっては、名誉ではなく尊厳が尊重の基礎である。この尊厳は、自律的行為者としての人格が、自分のために自分自身の目的を選択できる能力に存在する。名誉は、人格に対する尊重をその人が果たしている役割と結びつけるが、尊厳は社会的制度に先行する自己にあるので、単に侮辱だけで違法な侵害が生じるということはない。このような自己にとっては、評判は名誉の問題として内在的に重要なのではなく、単に手段として、例えば業務用資産として重要なだけなのである。(p.102-103)


個人的に興味深いものがある。人の評価・評判を気にする人ないしは気になって仕方がない人と人からの評価・評判をあまりまたはほとんど気にしない人というのがいるが、それはそれらの人の人格がどの程度「負荷ありし自己」であり、また、どの程度「負荷なき自己」であるのか、ということと関係しているのかもしれない。その意味で、生きている人間は常に何らかの負荷を負った「負荷ありし自己」であるというサンデルの主張は現実に即したものと言えると考えるが、その負荷の程度や自己の在り方に対する影響の度合いなどは、人によってかなり異なりうるのではないか、そして、その差異を重視するか無視するかによっても、政治理論に影響が出ることはありうるのではないか?



日本では戦後数十年の間、超保守主義政党である自由民主党が僅かの期間を除いて常に与党の位置に居座り続け、90年代の世界的な左派政党復活の潮流に反して現在でも[2000年当時]政権を支配しています。この理由の1つは、「日本の左派政党や進歩的な団体が現在でも旧来の社会主義の言語や福祉国家の言語しか持ち合わせておらず、それが人々の持つ『不安(malaise)』や『不満(discontent)』に訴えなくなったからではないか」と私は考えるのです。従って、「日本でもコミュニタリアニズムの言語が政治的に必要とされているのではないか」と思うのですが、如何お考えになりますか。(p.206)


チャールズ・テイラーとサンデルへの質疑応答の際の、ある質問者からのサンデルへの質問。この質問者の意見には共感するところが多い。すなわち、従来の政治的な言語では現在の状況を的確に捉え、改革していくことはできない。コミュニタリアニズムの言語にはその可能性があるのではないか。



平等についての、新しい語り方が存在すべきであり、公民的ないしコミュニタリアニズム的観念を備えているものです。違いはこの点です。標準的な社会民主主義――これはアメリカではリベラルに相当します――の平等についての言い方では、「底辺の人々にとっての不公正(unfairness to those of bottom)という名分や、分配的正義の言語、例えば「個々人にとっての不公正」という表現を用います。しかし、これこそ、政治的に敗北した言語なのです。「個人主義的過ぎる」というのが1つの理由であり、また「底辺の人々の数が、勝てる程十分は存在しない(投票しない)」というのはもう1つの理由です。それは失敗した(fail)政治的言語なのであり、多かれ少なかれ政治的な魅力を失ってしまっているのです。(p.207-208)


上の引用文に対するサンデルの応答の一部。

旧来の政治的な言語が政治的に敗北した言語であるという指摘は鋭い!



私達の文化は消費者の娯楽に向いており、メディアに動かされていて、知名度を重視しています。公共的な言説(discourse)は、実は非常に、テレビの極めて扇情的な言葉によって形作られています。……(中略)……。公共的な放送をこの種の扇情的なスペクタクルで一杯にしている、娯楽とメディアの会社に本当に縛られています。このような環境は、あなたが言うような公共的知識人や、また今日の如何なる公共的知識人が良く知っているような種類の議論を、最も歓迎して招くような環境ではありません。(p.216)


サンデルへの質問より。

メディアによって政治的言説が強く影響され、世論形成に重大な影響がもたらされているというのは事実だろう。そこでは知名度が重視されるというのもその通りであろう。私がここで連想したのは前大阪府知事であり、現在は大阪市長となった橋下徹である。彼のような人間を権力の座に居続けることができるのは、まさにこうした政治的言説空間の貧困が背景にある



日本に来て驚いたのは、韓国に比べて、日本の教授や知識人が尊敬されていない、という事でした。例えば、私達は、韓国と日本の間で、双方の公共的知識人が話し合うような公共空間を作ろうとしていますが、韓国側は、そこでの合意などを受けて国内で政権やその議会などでの演説に影響を与える事ができるのに対し、日本側は、本当に努力していても、知識人の政治的影響力が少なく、その政治構造も複雑なために、影響を与える速度は非常に遅いものとなります。(p.217)


韓国出身の質問者の質問より。

興味深い指摘である。

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