アヴェスターにはこう書いている?
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トマス・アクィナス 『君主の統治について 謹んでキプロス王に捧げる』

しかしながら会い集う民衆の目的は徳にしたがって生きることであるように思われる。というのは人びとが会い集うのは一人で生きるのでは到達できないようなこと、つまり共に善く生きるということのためなのである。そして善き生活とは徳にしたがうということである。それゆえ有徳な生活とは人間が会い集うことの目的である。(p.86)


「徳」を重視すること、ポリス的な動物というアリストテレスの定義にも反映しているように「共に生きる」ことを重視すること、さらに目的論的な論法など、さまざまな点でアリストテレスを想起させる。



この1920-30年代に<君主の鑑>に関する研究が比較的まとまった形で世に出ているという事実に何か意味があるのだろうか。訳者などはその年代がファシズム期に重なっている点からいって、そこに右の研究者たちが共通に抱く超学問的契機(独裁政治批判)が隠されているのではないかと秘かに想像してみるのだが。(p.147-148)



訳者解説より。「君主の鑑」というスタイルの中世の文献に関する研究が特定の時期にまとまった形で出てきた理由として、当時の政治状況に対する批判という意味があったのではないか、という指摘。

私としては、訳者のようなケースもありうるが、それとはまったく逆に理想的なリーダー像を求める欲求の方に動機があったのではないかとも想像するのだが。そのような背景があったからこそ、ファシズムやナチズムの台頭が可能となっていたのだから。



 そしていま一つは、このことと連動しているが、そうした君主・支配者層(宮廷官僚層)の正しいあり方についての議論を「国家」という大きな政治的・社会的枠組みのなかで展開しようと試みているということである。この点は明らかに統治の議論を政治体(社会)についてではなく、もっぱらそれを担う個人(君主)の道徳的・人格的次元に収斂させてきたカロリング朝の<君主の鑑>の伝統に対する一種の革新を意味している。しかし、その革新はジョンが生きた西欧の12世紀という歴史的背景を考えれば、むしろ当然のことであったに違いない。つまり、この世紀は歴史の事実として、世俗の、いわゆる集権的封建国家が台頭していた時代に相当しており、かれの母国イングランド王国はいうまでもなくヘンリ二世によって当時の西欧で最強の権力機構を有する君主制国家を樹立していたのである。したがって、こうした巨大な封建国家には必然的に読み書きのできる支配官僚が大勢必要とされたが、そのような君主制の統治機構に編入された官僚たちを含んで、君主の宮廷に屯する支配身分の者たち(宮廷人)を教育し、かれらに統治者たることの正しい自覚をつよく喚起させることがジョンの課題だったのである。(p.177-178)


12世紀ルネサンスにおける最大の「君主の鑑」を著したソールズベリのジョンに関連して、その時代背景との関係で君主の鑑の展開を記した個所の一部。

イギリスが当時「最強の権力機構」を持っていたかどうかにはやや疑問は感じる。当時のイギリスはまだむしろかなり田舎の地方だったと思われるからである。



実は、その一世紀前にいわゆる「十二世紀ルネサンス」と呼称される古典復興の運動(翻訳活動)があって、そのなかでアリストテレスもかなりな程度にまで紹介されていたのである。詳細はほかに譲るが、このルネサンス運動はアリストテレスなどギリシア語の文献だけでなく、アラビア語の文献(いうまでもなく、西欧中世前期ではギリシアの思想・文化はアラブ世界のほぼ独占物であった)のラテン語への翻訳を主として三つのルート――①スペイン・ルート、②シチリア・ルート、③北イタリア・ルート――を通じておこなっていた。このうち、③の北イタリア・ルートは特筆に価するが、ここではヴェネツィアのヤコブスによってアリストテレスの『分析論前書』、『分析論後書』、『トピカ』、『詭弁論駁論』がギリシア語からラテン語へと翻訳され、それによって西欧中世世界は初めてアリストテレス論理学の全貌(その全著作=「オルガノン」)を「新論理学」として知るにいたったのである(それまでは6世紀初頭のボエティウス訳になる『カテゴリー論』と『命題論』だけが「旧論理学」として知られていたにすぎない)。(p.200)


12世紀ルネサンスにおけるアリストテレス哲学の受容に関して参考になる記述。



 翻って考えてみるに、アリストテレス=トマス的人間観を全否定し、人間を一切の歴史的・社会的文脈から切り離された「原子論的個人」と捉えてきた近代思想にまったく問題がなかったなどと強弁できる人は、今日いったいどれだけいるだろうか。(p.237)


文庫版へのあとがきより。

この問題意識はマイケル・サンデルの議論と通じる。サンデルも共通善の政治学としてアリストテレスを重視するし、「負荷なき自己」として社会的文脈から切り離された自己観を批判し、コミュニティが熟議により共通善を見出していく過程を重視しており、訳者の問題意識と通じるものがあり興味深い。


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