アヴェスターにはこう書いている?
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マイケル・サンデル 『リベラリズムと正義の限界 原著第二版』

無知のヴェールがあるからこそ、正義の原理は、平等と公正の条件のもとで、選択されることが保証されている。契約の当事者は、相違する利益によっては識別されていないために、無知のヴェールから、さらに、初期の同意は満場一致であることが保証されると帰結されている。(p.28)


ロールズの著作はまだ読んでいないのだが、知れば知るほど、彼の論理展開はウェーバーの方法論と類似していると思わざるを得ない。ウェーバーが理念型を構成するときに利用している方法論的個人主義と似ている。ある特定の状況の個人を構成し、その動機の意味理解から社会層の動態を描出していくという方法とそっくりであると思える。



不適切な条件での正義の行使は、結合体の道徳的性格を全般的に衰退させるようになるので、この場合、正義は徳目ではなく、悪徳になるであろう。(p.39)


リベラリズムが「正は善に優先する」と主張することに対する批判。本書は、私が今まで読んできたサンデルの本よりは理論的な著作なので、こうした部分についての理由が細かく述べられているので彼の思想への理解が徐々に深まってきたのを感じる。実際、リベラリズムの「正は善に優先する」ということに対する批判としては、この批判は妥当だと思われる。



このように、格差原理が運命の恣意性を認めるのも、私は、真の占有者ではなく、たまたま私に宿る才能や力量の保管者か容器でしかなく、それだけでは、それらの行使から得られる成果に対して、特別な道徳的要求が私にはない、と断定されるからである。(p.80)


格差原理やそれに類する主張をするためには、所有ということが問題になる。この点に関して私に最初の示唆を与えてくれたのは立岩真也の『私的所有論』だったが、格差原理についての解読は私が以前読んできたこうした思想の位置づけについても示唆を与えてくれるように思われる。



自らの努力を通して、達成されたものに、少なくとも、人の真価があるという要求は、直観的にはもっともらしいが、意識的に進んで努力することでさえ、大部分は社会的・文化的偶発性によって決定されているかもしれない。(p.81)


この種の議論はリバタリアンや実力主義・成果主義的な保守的理論に対する批判として有効だと思われる。



 われわれの再構築から示唆されているように、ロールズの契約観にある主意論的性質は、人間主体の本質的な多元性や、争い合う要求を解決するための必要性と結びついている。(p.141)
争い合う要求がほとんどない小さなコミュニティ(理想的な家族)などにおいては、正義の原理は必ずしも最優先とならない可能性を示唆しているが、これは本書からの大きな収穫だった。



取引と同じく、討論で前提とされるのは、知覚・利益・知識・配慮に関して、討論者の間に、何らかの格差があることであるのに、原初状態においては、そのような格差は何もない。したがって、当事者の「熟議」とは、沈黙のうちに進められ、満場一致で同意される、単一の構想だけを生じさせるものである、と仮定しなければならなくなる。(p.147)


ロールズの原初状態への批判だが、特にその方法論的個人主義の問題点を的確に指摘しているように思われる。熟議民主主義を尊重するための枠組みや人間観としては、ロールズの描いたものは不十分である。



 少なくとも、明らかであると思われるのは、コミュニティの問題は、当然、反省の問題へと至ることであり、ロールズの図式における反省の役割を評価するためには、ロールズの行為理論を、つまり、自我がその目的にいかにして到達するかに関する彼の説明を、より詳細に検討する必要がある。(p.176)


コミュニティの問題は反省の問題に至るというのは、アイデンティティの問題と密接に関係していることを示唆していると思われるが、コミュニティ、アイデンティティと行為との関係についてはオートポイエーシスの構想も含めて考察する必要があると私は考えており、その点ではサンデルの理論も反省的な理論の枠内でしか動いていないと思われる部分があり、そこに問題を指摘できるものが含まれているように思われる。ただ、現時点ではまずは習得してしまう段階であるため、性急な批判は差し控えることにする。



 ヒュームにとって、正義は、社会制度の第一徳目ではありえず(少なくとも、定言的な意味ではありえず)、しかも、ある場合には、まったく徳目であるかどうかも疑わしい。例えば、家族制度では、正義が請け合われることは希になり、まして「第一徳目」でもなくなるように、愛情が拡大されるかもしれない。……(中略)……。相互の仁愛や、拡大された愛情が、より広く涵養できる限り、人類にとっては、その方がよいのかもしれない。(p.193-194)


既に引用したものと同様、正は常に善に優先するとは限らないとする議論。



 サンデルがリベラリズムやリバタリアニズムを批判することには、個人の権利の絶対化が個人の利益(私的な善)の絶対化につながり、コミュニティを形成し、維持していくために不可欠な共通善が失われていることが背景にある。サンデルの主張も含めて、なぜ1980年代にコミュニタリアニズムと呼ばれる主張が登場したかに関しては、当時のアメリカにおいて市場主義的なネオリベラリズムが支配的になり、それに対抗すべき福祉主義的なリベラリズムもそのような傾向に対して基本的には無力であったことがあると私は考えている。(p.273-274)


訳者解説の一節だが、妥当な意見であろう。そして、同様の理由により現在の日本でも有用な思想であるというのが私見である。


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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

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